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学習の記録 気温の周期と人間の歴史(1978)

      2024/10/17


学習の記録 気温の周期と人間の歴史(1978)2024年9月29日記録開始

原田常治, 気温の周期と人間の歴史(第一巻)温暖化がすすむ日本列島, 1978(婦人生活社)

はじめに=Background

#環境ビジネス は人類に食糧危機を齎す。

これは、次の2つの事実から推論できる。
1 少し前からコオロギ食、人工肉がニュースで話題になっている。昆虫食と人工肉でお金儲けをしたいヒトがいる。
2 鳥インフルエンザをPCR検査で検知して大量の食用トリを殺処分している。PCR検査で確定診断はできず偽陽性がある。ct値を増やせば陽性を偽造できる。太古の昔から動物肉に火を通して食したのは先人の知恵。

企業社会主義を欧米が世界に広める傾向は、1913年FRB設立後、1914年からの第一次世界大戦以降顕著となる。
#戦争ビジネス の後は、#ワクチンビジネス。そして、#環境ビジネス。
時の米国政府(極一部のヒト)の言うことを聞かない海外の政権を独裁者と呼び、その政権の不満分子にお金を支援してクーデターを起こさせる。その後、企業社会主義を受け入れる傀儡政権を創り、その国の国民から搾取する。米国民も搾取し続けられています。
この一部の家系がやり続けていることを米国は嘘の大国と呼ぶ、米国の民もいる。

地球が温暖化しているのであれば、それは、天体運行、地球の地軸や太陽活動が主な原因であり、CO2はほとんど影響を及ぼしていないと私は推論している。
私がこう考えるようになったのは次の2点から、
1 #キャリーマリス さんの著作、マリス博士の奇想天外な人生を講読し、フロンガスがオゾンホールを消失させるという主張が間違いであると考えるようになったこと。
2 CO2に税金をかけてお金儲けをする仕組みが創られていること。

第二次世界大戦もこの流れを強化するために実行されたとする見方もある。
実は、#アドルフヒトラー さんはユダヤの血を引くヒトで、同胞を大量虐殺した。1717年以前からこの流れを創ってきた #死の血盟団 の要員もしくは協力者で、ベルリン陥落時に自死していなくて、アルゼンチンで逃亡生活を送った。アルゼンチン時代の写真をFBIが保管している。この後、イスラエルが建国され、米国の政治はユダヤロビーの献金によって牛耳られています。

地球温暖化はCO2が原因であるとする、#環境ビジネス の嘘を世界中のヒトと共有する教材として私の学習を記録する。

地球は周期的に寒冷化、温暖化を繰り返している。今我々が体験している温暖化は北回帰線が北上する現象による北半球の温暖化。人為的なCO2の排出が主な原因ではない。

成果=Output

本著の記述は「    」、私のコメントは” “、何も付さない記録は本文の要約。

はじめに

「最近、地球の寒冷化とか、北半球の寒冷化とか、氷河期が来るとか、南半球が温暖化しているとか、こういう種類の説が乱れ飛んでいる。」

「特に、人間の撒き散らす埃の類によって太陽の熱が遮断されるから、温暖化するとか寒冷化するとか、または工場から出る煙の二酸化炭素が多くなって、そのために地球が温暖化するとか寒冷化するとか、そういう机上の学説に対しては、私は初めから信用しない。」

「大自然というものは、人間の力で左右さえるようなケチなものではない。こういう説は机の上の数字で、実際とは大体関係ないものである。」

「一度こういうところでも計ってもらいたいと思う。また、私が不思議に思うのは、こういう温暖や寒冷に、人間の生活が全線結びつけて説明されていないことである。」

「昔から、理論と実際は合わないものだとされていた。」

「しかし、人間社会の動きとか、経済のなどの分野では、理論と実際が全然合わないことが多いような気がする。」

「優秀な経済学者、経済評論家が社長になっても、その会社が実際に繁栄することは、ほとんどないだろうと思う。この経済学と実際の経済が一致しないのは、だんだん調べてみると、学問のほうに欠陥があることが多い。」

「その話を聞き、数字を眺めている間は一応もっともなような気がしたが、そのまま実行しても絶対うまくゆかないことは、私にはよくわかっていた。それで、「この数字には日本民族とアングロサクソン民族の民族性の差が出ていませんね」また、「日本の歴史の伝統とアメリカの歴史の伝統の差の数字が入っていませんね」また、「日本人の感情とアメリカ人の感情の差の数字も入っていませんね」また、「日本人の生活習慣とアメリカ人の生活習慣の差の数字も入っていませんね」「そういう数字抜きで、この数字を日本の会社の経営に取り入れて、うまくゆくはずはないではありませんか」たびたび、コンサルタントと称する人たちとこういう会話をした。こういう問題が、学問と実際が一致しない原因になっているようである。」

「私は26年間、社長を務めて会社の経営をした結果、いつでも学説に頼らずに、実際だけを頼りにして、その結果が良かったと自信を持っている。」

「それで、一応学説や数字は棚上げにしておいて、地球上の実際の変化、植物、動物、人間の世界がどういう変化をしたか。それを徹底的に調査して、それによって温暖、寒冷の気温の変化を証明する方法を採った。いつでも、実際学の方は大局的であり、総合的であり、機能的である。これは、経済学者のルートではなく、実業者のルートだと思う。その結果、学者の説とは反対になったりしているが、あくまでも実証主義であるから、欠陥の多い学説よりも正しいという自信を持っている。」

「この調査は1951年から1975年の、25年間かかった。空間的には、足元の日本列島からアジア、ヨーロッパ、北アメリカ大陸等、温暖、寒冷によって左右される地区は、ほとんど自分の足で歩き、自分の目と耳で調査した。日本内地は、青森から鹿児島までの間で自分の足で土を踏まないのは、秋田県1県を残すだけである。1回しか土を踏まない県も山形県、福井県、鳥取県、佐賀県の4県だけで、後の県は全部2回以上、自分の足で土を踏んだ。日本以外でも、温暖、寒冷の差のある場所は、台湾、朝鮮、中国、ソ連、チェコスロバキア、オーストリア、ギリシャ、デンマーク、ドイツ、フランス、イギリス、スペイン、スイス、イタリア、それから北米大陸のアメリカ、メキシコ、カナダ、これらの国々の約30何箇所かをチェックして、そのほとんどを9月に調査した。」

「時間的にも、最近の傾向として120年間ぐらいを目標に、地球上の変化を調査した。」

「その周期を確かめるために、3000年まで遡って、西洋史、東洋史、日本史を調査をして、その結果、気温に周期があり、その気温に左右されて作られた人間という生物の歴史に、かなりはっきりとした周期のあることが発見できた。」

“著者の原田さんとは認知モデルが近いと感じる。原田さんの実際学は、私が子供の頃から実践していた。すべてをひとまとまりとして捉え、ひとまとまりになっていない場の理由を明らかにする。結果的にひとまとまりになる。”

第1章 歴史は周期でくり返す

生物は自分の意志で生活できない

太陽と土と水であらゆる生物を創りすべての生物を元の土に戻す作業をいつまでも続ける。地球のある限り。

生物は太陽、空気、水によって生活、生存が左右されている。
ヒトも同じで太陽、空気、水の移り変りによって作られた筋書き通り。自分の意志で作ったものではない。

“ヒトは欲求を満たすため道具を創り自然の制約を克服してきた。これから先、地球を脱出するかも知れない。地球を脱出しても自分の意志で作ったものはない、と原田さんは考えるのだろうか?”

地球と太陽の関係

自然現象とは
「1 地球が猛スピードで東に回転していること。これによって生じる太陽との関係で、朝昼晩の温度が変化すること
2 地球の回転による摩擦によって、空気の流れができ、それが天候の変わる軌道になり、人間の生活に影響すること
3 空気の流れに押されて海流ができて、それによって影響されること
4 陸の東海岸と西海岸で、水蒸気、気温等に差があること
5 大陸の内陸部と東海岸部に温度の差がつくこと
6 土の質によって地方地方に違った生物が発生したこと
その他まだあるかも知れない」

地球と太陽との関係は
「1 朝昼晩の1日の変化
2 春夏秋冬の1年の変化
3 地軸が太陽と直角でないためにおこる南北回帰線の移動、それによっておこる北半球、南半球の、交互に生じる何百年単位の温暖、寒冷の周期
4 太陽を回る地球の軌道が完全円出ないためにおこる何億年単位の、地球と太陽の距離の変化による大きな周期」

「この研究は第三の「南北回帰線の移動によって起こった、主として北半球の温暖、寒冷の周期と、人間という生物が、それによってどう左右されたか、その歴史の周期」の調査である。」

「この寒冷、温暖の時期が、きちんの周期になって、ほとんど同じ場所で同じ事件がおこっている。従って、これからの将来の、地球上の生物の歴史の筋書きも、かなりの正確度で予知できる。これは科学であるから、予言ではなく予知である。」

“地球温暖化の議論は、地球は周期的に寒冷化と温暖化を繰り返していることと一緒に伝えないとプロパガンダ、洗脳と見做される。”

第2章 地球の時点と空気と海流

地球の自転と空気の流れ

地球規模の海流と風は地球の自転が起こしている。

暖流と寒流

海流には2種類ある。
1 地球の自転によりおこる海流
2 風に動かされる海流

“もしこの原田さんの推論が事実なら、海流によって発生した風があるのでは?”

アメリカ、オーストラリア、アフリカの大陸の東側は、南半球、北半球とも暖流が流れる。
暖流の流れた先で海水が冷却されそれぞれの西側は、寒流が流れる。

北極の下には陸がなかった

地球の自転から海流は常に、北半球では時計回り、南半球では反時計回りに流れている。
パナマ運河では大西洋は太平洋よりも25m水位が高い。東から移動してきた海水が溜まったから。
この水位差の原因、どうして25mなのか、パナマ運河のところで大陸が分かれない理由は?
アルゼンチンの南端では太平洋から大西洋にかなり強い海流がある。
北極の下に大陸がなくて、大西洋に溜まった海水が北極の下を通って太平洋に戻っている。

ヨーロッパはなぜ暖かい

大西洋の暖流がヨーロッパを温暖にして、北極の下を通って冷却されてベーリング海峡から太平洋に流れてくる海流が樺太、北海道を寒い地域にしている。

この目で見た北極の氷

「海流は、太平洋に3つ、インド洋に2つ、大西洋に2つ、南極大陸のまわりを回っている西風海流の合計8つと、私が第九の海流と名づけた、地球の回転につれて取り残されて大陸を1周する海流の9つである。」

「私が長い間研究を重ねた結論から言うと、太陽の北回帰線はかなり北へ移動しているはずである。そのために、北半球は学者の寒冷化説とは反対に、事実はどんどん暖かくなっている。従って、北極の氷も、かなり小さくなっているはずである。」

「かなり北極に近くなったと思うのに、なかなか氷が見えてこない。そのうちにやと見えてきたのはなんであったか、氷でもない、水でもない、いわゆるゼリー状態の海だった。それがかなり幅広く続いた。その後に、やっと氷の部分が現れた。座席の丸い小さい窓からでは見にくいので、スチュワーデスに頼んで、台所の窓を借りて観察した。そのゼリー状態もカメラに収めた。時間を計って、このあたりが北極の中心部だと思われるところに、ものすごい幅の氷の裂け目が見えてきた。北極の氷は、北半球がこれだけ暖かくなると、一番溶ける九月の中旬には、真ん中にこれほど多い木な亀裂が生じている。それを自分の目で確かめ、写真も撮った。それからさらに東に飛んでいくと、今度は氷の面積がどこまでも続く。西側の氷は狭く、しかもゼリー状態の部分が広かったのに、東側の氷は、逆に幅が4倍も5倍も広かった。この事実は何を意味するか。西から大西洋の暖流がいかに大量に流れ込んでいるかと言うことである。そして北極の下で物凄く冷やされた海水が、今度は東側のベーリング海に流れ込んでいる。とにかく北極の氷は、北極を中心に真円に近い形ではなくて、西はかなり狭くて東が広い変形だった。これは、後で、精密に作られた地球儀を見ても同じだったが、この事実は、私の名づけた「第九の海流」が厳然として存在しているという証拠である。」

第3章 第九の海流と日本列島

第九の海流と日本の歴史

今、千島にしか住んでいないアシカ
日本の地名に残るアシカ島
・大阪湾の入り口の徳島側
・伊勢湾の入り口
・伊豆
・東京湾の入り口の久里浜ー金谷間のフェリー航路
・千葉県の犬吠埼の北

北回帰線が北へ移動して日本が温暖化したのでアシカは北へ移住。

トドが島根県の隠岐島に住んだという記録が残っている。

隠岐島から大阪湾の線の東側の日本はかつてオホーツク海千島の温度だったことになる。

この大寒冷期で東日本に住んでいたアイヌ民族が衰退。その後も寒冷期ごとに衰退。

「6月22日の夏至の日に、北半球の太陽の運行線が正確に東から西に動いているのに、南半球の12月22日の冬至の太陽の運行線は、大きく波形に動いている。」

「オーストラリアの西部や、ブラジルの東の海上では、24度線近くまで南下しているが、ペルーのあたりではかなり北を通っていると言うのが事実である。」

「この時代は、アリューシャンから抜けてくる第九の寒流は、計算してみると、その先端は宮崎県まで達していたのではないだろうか。それでないと、大阪湾の入り口はアシカの住む温度にはならない。」

「徳川幕府300年の間に、関東では150年以上が冷害で米が実らなかった。青森県、秋田県では大量の餓死者が出た記録もある。明治維新の時に、西郷隆盛を中心にした薩摩、長州、土佐の志士たちが、幕府打倒ののろしを挙げて成功した。私はこの歴史を、薩長土の志士たちの力だとは考えない。300年の寒冷期で、東日本の大名たちの倉庫には、一俵の米の備蓄もなかった。従って東日本のくうや食わずの武士たちに、戦争する力はもう残っていなかった。薩摩、長州、土佐は、冷害線の南側にあるので、まだ腹一杯米が食べられていた。この経済的事情のために初めから幕府打倒の成功が約束されていた。この点でも、負けた東日本の大名たちが無能で、西軍の志士たちが偉かったという理由にはならない。要するに、餌が不足してひょろひょろになっている動物が、腹一杯食べている元気な動物に襲われたみたいなものである。これは明らかに、気温が日本の歴史を左右した事実である。足利尊氏の室町幕府も、ちょうど明治維新と同じように、東日本の寒冷飢饉が続いた後で、楠木正成や新田義貞がいくら勇気や知恵があっても、ろくろく食べていない軍勢を率いては、腹一杯食べていた九州の軍勢を連れてきた足利尊氏とは、初めから戦争ができなかった。新田義貞の軍は途中で凍死したという記録もあるくらいで、初めから戦争をする体力がなかった。やはり人間の歴史は、人間が作ったものではない。生物の一種類に過ぎないという証明であると思う。」

1976年、福島、茨城の東海岸にイワシの大群が殺到。網にかかり過ぎて破れてしまう為漁を中止。明治末期、大正初期まで北から南下してくる海流がイワシの大群を運んできた。九十九里浜の海岸にイワシを積み上げた堤防のようなものができた。砂だらけのイワシを干したものをカマスに入れて肥料にして農村に売られた。著者は砂だらけのイワシを田んぼに巻いた記憶がある。イワシの歴史もイワシ自身の意思とは関係なく寒暖の海流によって左右される。

なぜ冷水塊はできるのか

北陸地方になぜ大雪が降るか

第九の海流は北陸にドカ雪を齎す。
「冬季、西高東低という典型的な冬型気圧の日は、東京など太平洋岸は晴天で、日本海側は雪が降る。なぜ高血圧で雪が降るのか。」
「日本海を北上する対馬暖流は、(南下する第九の海流(寒流)とぶつかり)その通路の全部で湯気を立ち昇らせて流れる。その湯気が、上昇すると同時に、シベリアから吹いてくる寒風で、雪と化して北陸の山地に吹き付ける。それが高気圧日の大雪の正体である。」

第九の海流と南北半球の違い

「この第九の海流は、太平洋の暖流の中に混入して、一時はその行方がわからなくなるが、この分量だけは、どうしてもインド洋に流れて行かなければならない。」
台湾、香港、マカオで調査。熱帯という感じがしない。香港、マカオは北緯22度か23度のかなり赤道に近い熱帯。
オーストラリアのシドニー、ブリスベーン、ロックハンプトン。熱帯植物ばかり。シドニーは南緯33度か34度。同じ経緯の東京、大阪とはえらい違い。
オーストラリアと日本との違い。オーストラリアには南極大陸があるが、日本は北極に大陸がない。オーストラリアは南極大陸で冷却された寒流が戻ってくる。戻って来た寒流が赤道付近で温められて再びオーストラリアに暖流として戻ってくる。日本は北極で冷却された寒流がベーリング海峡から南下して、日本の南から北上してきた暖流の対馬海流と黒潮と衝突する。衝突後、分岐したり潜ったりして更に南下する。
北極が大陸で太平洋で海水が循環していたら東京や大阪もシドニーと同じように熱帯になるだろう。

アメリカと日本の相違

温暖なロスアンジェルスとほぼ同じ北緯の長崎と比べると温暖。ロスアンジェルスは北太平洋海流が寒流になって南下する西海岸。第九の海流が地球最大の規模で水温は最低の寒流であると思う。

日本の北方

“著者の原田さんは、シベリアが海岸線を含めヒトが住むに適していない地域、第九の海流が寒流である事から日本に北方から移動してきた民族はいないと推論している。しかし、地球は温暖化と寒冷化を周期的に繰り返している。そうであるならば、シベリアがヒトが住むに適した地であった時期があったのかも知れない。また、海流の温度もそれに伴い変化していると推論できる。私には北方から移動して来た民族のある可能性は否定できないと考える。”

第4章 回帰線の北上と食糧、人口

温度とは太陽なり

太陽と地球との温度の関係の3つは既述の通り。
「第四の周期は太陽を回る地球の軌道が正しい円ではないために、太陽と地球との距離が近くなったり遠くなったりするための、何万年かの単位の気温の周期であると思われる。」

「何万年かの昔、地球と太陽の距離が遠くなった時、地球は物凄い寒さに襲われて、北米が氷河に覆われ、熱帯の今の砂漠地帯の中近東が大森林であったということは、かなり確かなようである。その時の大森林が地下に埋もれて、現在石油になって出ているわけである。北米が氷河時代であったということは、いろいろの証拠がある。その時、寒さで地球上の動物類がほとんど全滅した。脚のある爬虫類の大きな種類のものも、ほとんど残らなかった。その時、生き残れる条件があった場所を考えてみると、赤道直下で、周辺の海水の温度のために寒さが緩和されて、極寒を免れた島の大きさなどを計算してみて、太平洋を調べていったら、東太平洋のガラパゴス諸島が見つかった。ここには前世紀時代の脚のある爬虫類が、現在でも生存している。これと反対に、地球と太陽が接近したこともあったと推定される。その時は、あべこべに南極、北極に近い方が大森林になって、地球の中央部はほとんどが砂漠になった時代があったのではないかと思う。それでないと、樺太やシベリアやアラスカ、近頃開発しているイギリスのアイルランド海岸の油田発掘、あるいは南極に近いチリやアルゼンチンの南部、マゼラン海峡付近、オーストラリアのタスマニア海峡油田等、北極、南極に近いところから石油が出るはずがない。」

“石油があるということは、そこにかつて森林があったということ”

「第四の周期は、何億年毎というもので、今後一億年ぐらいは来ないだろう。」

“回帰線が移動するのは地軸は固定されていなくてブレながら自転しているということ。もしくは、公転の軌道が平面上にないということ。”

Esquire, 地軸の傾きは、20年弱で31.5インチずれている…。この事実が意味するところは?, 2023/09/19
“本記事では人為的な行為(地下水の汲み上げ)が地軸のブレに影響すると主張。私は、人為的な行為ではなく地球の天体運行の現象の一つであると考える。どうして、自然の摂理で起きていることだと推論しないのかが不思議。なんでも人為的な変化とラベル付けして、お金儲けの手段とする発想が支配している文化の中にいる記者との印象を拭えない。”

「北回帰線は現在24度線を越して、24度10分のところまで北へ移動していた。そのために、北半球がどんどん温暖化していくのは、諏訪湖の凍結記録その他でもかなり正確に証明されている。」
「南半球では、太陽の運行線が正確に東から西へ動いていない。それも極端な角度で波形に動いている。オーストラリアでは、朝測ると太陽の影は西南にうつり、夕方測ると東北にうつる。・・・ブラジルでは、オーストラリアと反対に太陽が東南から西北に毎日動いていた。その角度がオーストラリアとほとんど同じであった。」

“同時に北半球と南半球で測定したらどうなるのだろう?地球は変形しないと思い込んでいるが、実は変形しているとか。北極を定点(気味)として南極は北極から見ると円を描くように動きながら自転しているとか。”

「地球が完全な円でないかも知れない」
「地球は完全な円ではなくて、赤道の方が膨らんで、南極、北極は幾分尖っているのではないか」
「地球は赤道で測った方が広いということは聞いていたが、やはり私の目で見ても、北極の方が少し尖っているという感じがした。これが、回帰線が北へ移動している現在、南半球の太陽の運行線が波形になっている原因ではないかと連想してみた」

「地軸が回転して何百年かで一周する場所が、太陽と直角の場所であると推定される。」
“どうしてこう推定できるのだろう?”
“P.79の記載から推論すると、地球の内部にある”磁石”と地殻が必ずしも連動していなくて、「”磁石”と中心に地球を観察したとき」、地殻が”磁石”を中心に回転しているようだ。”

「十年毎の平均で作ったグラフはかなり正確で、北回帰線の北上の線も、一楽の平均気温の線も、米の獲れ高の線も、人口の増加した線も、人間の身長、体重の増えた線も、全部同じ角度で、平行している。」

人口と食糧問題

「現在、世界の人口は40億人といわれ」

“本著が1978年発刊。2022年は80億人を超えた。44年で2倍。次の44年で2倍の160億人になるか?工業化と情報化が進むと人口増加率は落ちる。貧困化は人口増の引き金だと私は考える。”

「世界の40億の人口の大半は北半球に住んでいる。その人間が生きているということは、それだけ食糧があるということである。また、それだけ人口が増えたということは、北半球の食糧が増産されたということである。それはとりもなおさず、北半球に太陽の分量が増えて、水蒸気や雨量が増えたということである。その原因は、回帰線が北上したという以外に理由は考えられない。」

“著者、原田さんは、北半球は温暖化していると主張されている。人口増は温暖化により食糧増産が可能になったことを示している。”

北半球の温暖化は150年から200年続き、回帰線の南下が始まり、北半球の太陽の分量が減り、食糧生産量が落ちる。

“原田さんは、地球の環境が変化して食糧の生産量が減ったら餓死すること致し方なしとお考えのようだ。”

最後の英雄

「戦争がなければ英雄は出ない」

“戦争の原因は食糧不足なのか?”

第5章 気温と雨量と生物

気温と生物

「地球上の生物は、空気中に住んでいるもの、水の中に住んでいるもの、土の中に住んでいるものと3種類ある。」
「春になると、空気中の微生物が繁殖し始める。それがみんな芽を出して、集団になって霞のような形になる。霧は水蒸気で、霞は生物である。」
「そういう空気中、水中、土の中の生物を100%利用して生きているのが人間である。」
「空気中の生物も増えれば、水中や土中の生物も増える。そうなると、人間の利用するものがたくさん増えてくるから、世の中は非常に豊かになり、人口も増えてくる。ところが、太陽の分量が減って寒くなると、あらゆる生物がどんどん減ってゆく。当然それを利用する人間の生活は貧しくなり、世の中は貧乏になって人口も減って、また戦争が始まる。」

“温暖化が進む今ここで戦争が始まるのはどうしてなんだろう?戦争は自然のサイクルでは起きていないから。”

日本の気温と雨量

日本列島の場合
「この約100年間の気温の上昇を調べたら、年間の平均気温が回帰線の北上の通りに上昇していない。さらに月別に調べたら、一月の平均気温の上昇がほぼ回帰線の北上と平行して上昇していることがわかった。」
7月、8月は平均気温が上がっていない。これは雨量が増えて地面を冷やすから。

“温暖化は肌感覚ではないらしい。”

東京都の小河内ダムはつくった当初10年近く水がたまらかなったが、最近いつも満水。これは、温暖化によって雨量が増えたという証拠。

地球の自転と雨量の関係

地球は西から東に猛スピードで自転している事実から、大陸では雨は東海岸でしか降らない。
#カリフォルニアの青い空
日本のような小さな島国では周りの海から至る所で水蒸気が上がり、どこへでも雨を降らせる。
「世界中を実地に歩いて調査しても、熱帯以外では、日本列島のように全体が緑に覆われているという地域はほとんどない。」

大陸では東側に生物の棲息地域ができて西側は砂漠となり生物の棲息は難しくなる。これは、大陸の東側で発生した水蒸気が大陸の西側に届かないことが原因。

第6章 なぜ歴史の周期を考えたか

平安期の温暖文字

平安期の「枕草子」の冒頭の描写が1927年の京都の極感の冬と全く異なっていた。
905年にできた「古今集」の歌を調べた。該当する25首の中で寒さの実感を描いた歌はなかった。
京都付近で雪が見られなかったらしい。
大正、昭和の初期に京都の周りにスキー場があったほど雪が多かった。

“平安時代、女性は十二単を着た。十二単を着るほど当時気温が低かったのでは?”

1205年にできた「新古今集」では冬の厳しい寒さを読む歌がある。
平安時代にはない極寒が鎌倉時代にはあった。

氷の張らなくなった田んぼ

1921年の春に原田さんが故郷を出る時年1回は帰郷することにした。母親が無くなるまで30年間年1回帰郷した。帰郷すると田んぼをよく見て回った。
1949年頃、正月に田んぼに氷が張っていない。日陰でも。
この頃、正月に生家の縁側で日向ぼっこをしていたら暑くて中に入ったことがあった。
1912年、子供の頃、縁側で墨をすって筆につけたら墨が筆につかない。よく見ると墨をするそばからしゃりしゃりと凍ってしまった。
この2つの体験から昔より暖かくなったことに気づく。
平安時代は暖かかった、明治時代は寒かった。徳川時代も明治時代よりももっと寒かった。

慶應大学西岡先生「歴史には温暖、寒冷の波があって、それが700年の周期で繰り返されている。後に700年は間違いであることに気付く。

松の皮を食べた寒冷地帯

徳川時代は非常な寒冷期が続いた。関東地方、近畿地方も米が取れなかった(記録から)。冷害で米ができなかったのは264年のうち150年以上。
百姓一揆は1600回。特に天明の大飢饉、天保の大飢饉。東北地方は10年に1度か2度しか米が取れなかった。津軽藩、佐竹藩では20万、30万の餓死者がでた。明治になっても冷害は続く。
原田さんが直接聞いた青森県のヒトの話「食べる米がなくて、そこらの山や野原に生えているものでも毒でないものは何でも食べた。それでも主食の代わりになるものは少なかった。蕨の根を掘り出して、それを集めて臼の中に入れて、餅をつくようにして、最後に餅のような状態になったところで食べた。そのわらびもたちまち取り尽くして、しまいには松の皮を剥いで、外側のガサガサするところを除いて、中側の白いところを臼に入れて、餅のようについて食べた。腹が減ると何か食べなくてはいられない。自分が子供の時は、まだそういう年もあった。」
青森や秋田では飢饉状態が明治時代まで続いた。

今(1975年)では秋田県は上位の米の生産県、更に北の北海道は一位の新潟県と首位を争うほど。100年の間、太陽の分量が増えて水蒸気の分量が増えた。

中国にも同じ研究をした人がいた

1974年、中国にも地球の温暖化と寒冷化の研究者がいることを知る。
中国語の論文を取り寄せて確認すると、周期までは言及していなかった。気候変動の事実は異なる点はあったが概ね同じ結果だった。

諏訪湖の結氷記録

「諏訪湖の記録は、室町時代の初期嘉吉三年(1443年)から、ちょうど530年間、諏訪神社下社(秋宮)で記録されていた」
「室町時代の温暖期の中心である寛正2年(1461年)から永禄3年(1560年)の100年間を調べると」
結氷日
11月凍結 38
12月凍結 48
1月凍結 3
2月凍結 0
不凍 11
日時不明 1

「これに対して、大温暖期になってきた最近の明治7年(1874年)から昭和48年(1973年)の早く年の統計」
結氷日
11月凍結 0
12月凍結 11
1月凍結 45
2月凍結 4
不凍 17
日時不明 23

日時不明は1870年から1903年の間。この間、凍結した市内の記録だけで何月何日の記入がない。
この前の20年間の記録は12月中旬が3回、下旬が3回、不凍5回。この後、現在に至るまで70年間、12月中旬以前に凍結した記録はない。

室町時代と現在を比較すると最近の100年の方がおよそ凍結日が1ヶ月以上遅い。
結氷期間を推定すると
室町100年 平均130日
最近100年 平均35日 

米作と結氷期間
1783年 東日本の稲作が壊滅してほとんど無収穫、餓死者20万人、30万人 諏訪湖11月1日氷結、推定180日間継続。
昭和以後 不凍年はその前後の年寄り米が200万トンから300万トン多く収穫。
少し凍結日が早まった1956年は前年よりも200万トン減収。

1909年 結氷日12月30日から結氷期間65日前後
徳川時代寒冷期300年間 ほとんど11月から12月中旬ぐらいまで凍結 結氷期間は130日から150日前後。

“11月から12月中旬までの凍結なら40日程度、なのに結氷期間は130日から150日、とは、1日中湖面が凍結していない日が90日から110日あったということか。1年の3分の1から2分の1の日はどこかのタイミングで諏訪湖が凍ったことになる。”

「この記録はまた、アシカやトドのような寒冷動物の北方移動とも合致するし、温暖植物の北上の現象とも完全に一致する」
1963年から1972年の10年間、半分の5年は不凍結。最も早い凍結日は1月上旬という暖かさ。1974年は日本列島寒冷化、各地で雪害があったが諏訪湖が久しぶりに凍結したのは1月4日。徳川時代の11月に凍結したという寒冷状態は今の時代から想像できないほど厳しかったと思われる。

“凍結日の早い遅いは四季の周期が前後に動いたということではないのか?しかし、米の収穫量と諏訪湖の凍結日数が相関している。”

凍結日の定義:御神渡の日を記録。水よりも氷になった時の方が分量が増えるから、湖の両岸から凍っていった氷が中央部で合わさった時盛り上がり、それが相当の高さになって、大体の年は東から西へ、時には南北にもこの隆起が現れる。御神渡がないと人間が乗ると壊れる心配があった。氷点下10度になるとこの現象が起こる氷の厚さになると言われている。

700年周期説の間違い

“原田さんは700年周期説の間違いを具体的な調査結果を示した上で主張していない。ご自身が知り得た情報と諏訪湖の凍結記録を比較しての結果”
“原田さんの主張の基礎が諏訪湖の凍結。これが寒暖差が大きくなった結果であり、平均気温は大差なかったことを否定しているのか現時点で判断できない。”

第7章 回帰線の移動測定

25年かかった3つの角度の調査

「どんな無理をしても、三つの角度からだけは徹底的に調査して、確認証明する必要がある。第一は、北回帰線、南回帰線が現在地図に書いてある23度27分の固定した場所ではなくて、毎年少しずつ移動しているという科学的証明である。それでなければ、温暖寒冷の周期ができるはずがない。」
「第二に、地球上で毎年草が枯れ、木の葉が落ちる地帯、すなわち寒暖の差がはっきり現れる地球上のあらゆる地帯を、同じ時期に、自分の足で行って、自分の目で確かめるということ。その時期は9月以外ではダメである。9月という季節は、草や木が一番茂りきった頂点で、これからは落葉して行くというその境である。この頂点の状態を、地球上で約30ヶ所ぐらいチェックして、その場所を調査に行かなければ本当のことがわからない。その場所に生えている木や草だけではなく、そこに住んでいる人間の状態、あるいはそこに住んでいる民族の性格を調査してこなければならない。」

#温暖富裕 #寒冷貧困

「第三は約3000年ぐらいまで遡って、ヨーロッパの歴史、中国の歴史、日本の歴史の記録を調査して、その現象面の政治、戦争、経済、社会、思想、宗教、文化、芸術等の角度から整理してみて、果たして北半球全体が温暖富裕、寒冷貧困の時期や期間が一致して動いてきたかどうか。また、この現象が果たして性格な周期でできているかどうか。」

調査には1951年から1975年まで25年かかった。

北回帰線の測定

現在地球上の回帰線の標識が立っているところを探して、その標識から何キロぐらい離れたところが現在の太陽の位置であるという写真を撮って証明する。
北緯23度27分 台湾 嘉義 北回帰線
南半球 オーストラリア ロックハンプトン
南半球 ブラジル サンパウロの少し北

台湾 嘉義
1973年6月20日 21日 太陽は北側にあった。13時 北回帰線の標識に釣り竿を立てると東南へ影がはっきり写った。太陽は真上を通っていない。
22日 9時10分 北回帰線の標識に竿を立てると昨日とは反対の西側斜めのかなり南側に影が写った。太陽は真上を通っていない。

北回帰線は80キロ北上していた

1973年6月22日 11時近く 彰化の大仏 西側へ70cmの影 台中に移動 台中の議事堂の庭 11時55分 東西南北 どこにも影がない ここに北回帰線がある。
計算すると回帰線は1年に0.8km移動していた。計算が間違いなければ2030年から2050年頃まで北回帰線の北上は続く。北半球の温暖化。戦争は起こらない。
北半球の温暖化は10年に7年の冷害が5年、3年、やがてなくなるという経過を辿る。

“北半球の温暖化は北回帰線の北上が原因。CO2が原因ではない。”

「ここで問題になるのは、赤道を中心にして南北23度27分という今までの計算が、少し間違っていたのではないかという疑問である。」
「1879年にスパン氏が測った時には、南回帰線が約20キロから21キロくらいもっと南下していたのではないか。春分、秋分に太陽が通ったのは赤道の上ではなかったはずである。確かに赤道の南20kmぐらいだったと思われる。」
「南回帰線と北回帰線の幅は緯度で46度52分ではなく、47度くらいのはずである。」

「ただ不思議なことには、この何十年間、誰も太陽の位置を測った人がいないということである。」
「6月22日の太陽の位置の写真を撮った人は一人もいない」
「私は、地球物理か天文の観測をしているような学者が、毎年測っているのではないかと思っていたのに何十年も測った人がいないというのは非常に意外だった。」

南半球の太陽は東西に動いてなかった

1973年12月22日 南回帰線が通るオーストラリア ロックハンプトンへ。
「回帰線については何も疑問を持たないので、改めて測ったことはないし、外国の学者が測りに来たこともない。「回帰線は動くんですか」と不思議な顔でいった。」

18日シドニー着
20日ロックハンプトン入り。雨で飛行場が水の中。
21日雨止んで太陽が出た。ホテルの庭。朝9時。釣り糸を垂れた。太陽の影は西南。南回帰線の標識のあるところから北へ80kmの場所に11時半到着。太陽でず。移動。マールボローの南3マイル半ぐらいのところで太陽が出た。14時30分、ガソリンスタンドで撮影。影は東北に写った。太陽はここより南。雨で道路が冠水。移動できずホテルへ。ホテルの庭では朝と反対に東北に影が写った。
22日 回帰線の標識へは道路冠水のため移動できず。ヤーンバという部落。昨日と反対の西南に影が写った。地元に詳しい運転手が正午に太陽が真上に来る場所へ移動。ヤプーンを通り越してファンボロウの小学校に。磁石を置いて糸を垂れた。12時5分。確かにこの上を通ったという証明になりうる写真が撮れた(本にはその写真は掲載されず)。1時間後、同じ場所で測定すると東北に影が写っていた。南半球の太陽は東から西に運行していない。ファンボロウは南回帰線23度27分の地点から43kmのところ。測定した運行線は東が赤道、西は南極になる。南半球の太陽は波形に運行している。その後、回帰線の標識が水に浸かっていたので近くの道路に磁石を置いて影を測定すると東北へ影が写った。オーストラリアでは太陽の運行線が東北から西南に動いている。

ブラジルの回帰線

北半球は太陽が東から西に運行していたが、オーストラリアでは東北から西南に動いていた。この疑問を解決するため翌年ブラジルサンパウロを訪れて南回帰線の移動を再度測定した。

1974年12月22日にブラジル サンパウロの北方にある南回帰線の標識へ。
太陽が真上に来る時期は雨季。サンパウロでも雨に祟られた。
日本で調べた南回帰線の標識を現地のヒトは誰も知らない。
役所に確認して現地へ。影を測定すると太陽は東南から西北へ。オーストラリアとは逆。ほぼ同じ角度で運行。
23日、24日 正午の太陽は捉えられず。
25日 ジュンダイで正午に真上の太陽を捉えた。その後、太陽の影を真東に捉える場所を探す。リメイラ 17時 太陽の影を真東に捉える。
真西に太陽の影を捉える場所を見つけられなかった。そこは、海の上かも知れない。
「朝の10時から12時ぐらいまでの太陽の運行線を、そのままの角度で延長したら、午後5時にはもっと北へ行くはずである。それが、そんなに北まで行っていないということは、太陽の運行線が途中で西の方へ回っている証拠である。」

“P.140 図「ブラジルの回帰線と太陽の運行線」では南回帰線と太陽の運行線が平行ではない。クロスしている。この時点の太陽の運行線は時間が経つと、角度が変わって再び回帰線とクロスする運行線となる。北半球は回帰線と平行なのに、南半球は回帰線を跨いで波の形で運行している。北極を頂点とした円錐をイメージして欲しい。南極が円を描いている。北極と南極を貫く地軸で自転をしながら、更に、北極は不動点だが、南極は円を描く動点となり自転している。地球はこの2軸の自転をしていることを実証した調査結果。また、常に太陽系の中で他の惑星との距離や角度を変えながら太陽の周りを回っているのかも知れない。毎年、1年を通して同じようであるが厳密には異なる気候の変動を起こしている原因。宇宙は常に全体が変化している。つまり、太陽系の中の公転、自転は宇宙全体の変化から影響を受けている。毎周公転の軌道は異なる。”

第8章 日本列島の温暖化

1月の平均気温の上昇

北回帰線の北上によって北半球や日本にどんな変化があったのだろう。
150年間の変化。北回帰線は計算上110kmから120kmぐらい北へ動いている。
日本の気象台が発表している90数年の気温を1月で比較。1月を選んだのは、1年で1番寒い、雨量の一番少ないから他の月の気温は太陽の 分量に比例しないことが多い。夏の7、8月は太陽の分量が増えて湿気が多くなって雨の量が増える。すると地面が冷やされ温度が下がるような現象が起きて、気温は比例的には上昇していない。

“私が見たことのある温度推移は7、8月がピークになっていることが多い。温度が下がるという事実を本著で著者は示していない。”

「気象台のできた明治9年の発表から、東京地区での10年ごとの1月の平均気温を辿ってみると、次の通りである。
明治9年ー18年 2.48度
明治19年ー28年 2.77度
明治29年ー38年 3.27度
明治39年ー大正4年 3.05度
大正5年ー14年 2.79度
昭和元年ー10年 3.40度
昭和11年ー20年 2.85度
昭和21年−30年 4.04度
昭和31年ー40年 4.49度
昭和41年ー46年(5年間) 5.00度
昭和47年ー51年(5年間) 5.48度」

“昭和41年ー50年の10年で平均値を示さなかった理由を著者は示していない。”

1978年頃から50年経ったら(2028年)1月の平均気温は7度くらいまで上昇するだろう。

1月の平均気温
2020年 7.1
2021年 5.4
2022年 4.9
2023年 5.7
2024年 7.1

2020年ー24年までの1月の平均気温 6.04度

原田さんの予測通り、東京の平均気温は上がっている。ただし、ヒートアイランド現象を指摘しているヒトもいる。冬は室内が暖かく、室外が寒くなる。”

「徳川時代の温度を推定すると、1800年から1830年頃は、1月の平均気温が零度以下になっていたと推定される。」

米の収穫高

「米の生産高を調べてみると、
明治12年 379万トン
明治21年 580万トン
明治31年 710万トン
明治41年 779万トン
大正7年 820万トン
昭和4年 893万トン
昭和14年 1034万トン
と10年ごとに順次増えている。」
「昭和30年には、1238万トン
昭和34年には、1250万トン
昭和42年には、1445万トン」

収穫高の伸びが肥料や品種の改良、防虫剤等の進歩、改良の説はあるが、気温上昇の影響が大きいと考える。
「その証拠には、1千トンを越していた収穫が、昭和16年の冷害の時、わずか826万トンまで減ってしまった。その後も、昭和31年(1089万トン)の冷害、昭和41年の冷害、昭和51年の冷害と、ほぼ10年ごとに冷害の年があるが、その度に米の収穫高は大幅に減っている。もっとその証明になることを述べると、日本で一番の冷害地になる北海道の米の生産高は、
昭和36年 85万トン
昭和38年 86万トン
昭和42年 111万トン
昭和43年 122万トン
と増えているのに、41年の冷害では、たった67万トンしか穫れなかった。」

50年ぐらい遡って気温の低かった時代、1800年から1830年頃は全国で100万トン。この頃、飢饉で餓死者が出ている。
この頃、瀬戸内海の島々、四国などの平地の少ないところでは、ほとんど米は食べず、さつまいもが常食。これが明治、大正まで続き、米食に切り替わったのは戦後。関東地区でも米は足りなかった。麦やひえを混ぜた。東北地方の田圃の少ないところは麦、栗、ひえが常食。人口が少なかったが米で賄えなかった。ビルマから「南京米」を輸入。食糧事情がこれだけ大変化を起こしたのは日本列島が温暖化したから。

気温の上昇と人口の増加

食糧の増加とそれを食べている人間の数はいつも正比例。
1850年頃、日本の人口は2000万人台。人口3000万人に達したのは1870年頃。この頃、まだ米を食べていない地方がかなり多かった。
この頃、日本の人口はどんどん増える。食べるものがなく仕事がなかった。次男三男は仕事がなくて生きられない時代。女子は生産能力がないため極端に虐げられた。

人口増加から日本人の海外移民政策がとられた。

「米の収穫高は、1880年台には500万トンに達していなかった。それがわずかこの70年間に、2倍以上の1300万トンに達してしまった。この増加率と、日本の人口の増加率とは、ほぼ一致している。」
人口の増減は食糧の増減で左右される。食糧の増減は太陽と水の分量によって左右される。日本の食糧や人口が増加したのは北回帰線の北上による。

気温と身長、体重

食糧事情が良くなれば、体格も良くなる。
1900年から現在までの文部省の体重及び身長の調査統計がある。
この結果から過去を推論すると1780年頃は155cm位で現存する鎧や兜のサイズと合っている。
寒冷貧困の徳川時代には男子157cm、女子147cmくらい。
現代人の体格が良いのは動物性食品を多量にとった結果であるとの意見がある。
しかし、平安朝の大温暖期の日本人の身長、体重が現代人と似ていることが当時の衣類や武具のサイズで証明される。
動物性食品により体格が良くなったのではなく大温暖期で食糧が豊富なことが体格を良くしたと考える。

変わった台風の進路

四方、海に囲まれた日本列島は気温が上がれば雨量は多くなる。
寒冷時代の7月は雨が少なくて枯死していたので「水無月」と名付けた。ここ十何年間は7月は雨続きで「水多月」に変わった。
雨量の増加で崖崩れが増えた。砂漠地帯にも草木が生えるようになった。青森県の下北半島の入り口、茨城県の鹿島灘の南部、鳥取砂丘。
これらの変化は日本の温暖化が原因。
そして、台風。
明治、大正、昭和の初期は「210日」「220日」と9月の初めの頃、必ず台風に襲われていた。進路は東海から関東、毎年2回、3回は東京近辺を通過。それが気温の上昇で進路が北へ押し上げられた。北関東、北陸、そして日本海を通過して北海道へ。洞爺丸が転覆したとき、初めて台風が北海道に届いた。
梅雨も台風も届かなかった寒冷な青森、北海道が、梅雨も台風も届くくらい温暖になり米の産地となった。
秋の台風は「210日」「220日」から「230日」「240日」と遅れて届くようになった。
更に、それまで日本から離れて太平洋上や中国大陸に抜けていた7月台風が日本列島に近づいてきた。

気象庁の統計からは1951年から2023年まで台風の上陸数、7月から10月に上陸していることから、私は原田さんの主張が理解できていない。”

首都圏の水道問題

小河内ダム(1957年から)、狭山湖(1934年から)どちらも水が溜まっていなかったが、しばらくして満水になるようになった。
温暖化で水を賄えるようになったが、寒冷化により水を賄えない時代が来る。

「日本には、40年か50年ごとに一人の割合で、異常な頭脳を持った人間が現れる。明治の大隈重信、大正の後藤新平、昭和の加納久朗である。」
「千葉県側の東京湾をどんどん埋め立てて、大工業地帯を作ったが、そこで使用する水をどうするかということで、加納さんのところへ意見を聞きに行った人がいた。ところが、加納さんは即座に、「そんなことは君、心配いらないよ、東京湾を真水に変えて、その水を使えばいいじゃないか。東京湾の入口に堤防を作って、間を細く開けておく、ひとりでに塩水は減って、真水に変わるんだよ」と言ったという。これから先何年か経って、首都圏が水飢饉に陥った時、あるいはこの加納さんの言葉が実現する時代が来るかも知れない。今でも東京湾の海水の塩分は非常に少ない。千葉県の木更津の少し手前に埋め立てた跡を、工場にしないで、田んぼに利用したところがあった。埋め立ててから確か四年ぐらいだと思うが、私が見に行った時、田植えをした後のイネがスクスクと育っていた。イネというものは塩分にはとても弱いので、海を埋め立てて田んぼにはならないというのが常識である。それなのにイネが育っていたということは、東京湾の水に塩分が非常に少なくなったという証拠だと思った。」

塩分0でなければ稲が生育しないのではない稲には塩害に耐性をもつ遺伝子がある。”

気温の上昇と雪

「雪の降る量も、この約100年間、諏訪湖の凍結記録と並行して少なくなっている。」
10年に1度か2度のドカ雪の回数が減っている。
1977年の1月、久しぶりに日本海沿岸から東北、北海道にかけて大雪。この原因は北半球の温暖化。ノルウェーからグリーンランドの間を通って、北極の下に流れ込む暖流が暖かすぎたため、その暖気流が北極圏でできた寒気団を北極から追い出した。その暖気流の正面になった寒気団が、そのまま真正面にカナダの中央を通って南下したのが東アメリカで、ニューヨークやペンシルベニアが未曾有の寒波に襲われたのは、そのためである。その追い出された一部の寒気団が、シベリアを通って日本に南下したというのが正体。中間に挟まれたアラスカのアンカレッジは、暖冬で日本よりも暖かかった。イギリス、ノルウェーも近年にない暖かさ。フランスは異常温暖で寒中に大雨降って洪水。

日本の東北で降る雪は粉雪から暖かくなりぼたぼた雪に変化。

昭和30年から20年間、群馬県にからっかぜが吹かなくなった。

雷は夏のものと日本人は考えていたが、1978年頃は1月、2月の一番寒い時期に雷が発生するようになった。冬の雷は八丈島、三宅島あたりで以前からあったが、東京付近でも発生するようになった。

気温の上陽と温暖植物

みかんは温暖な気候の果物。昔は九州、愛媛、和歌山、暖流がやってくる静岡の一部で栽培されていた。それが、どんどんと北上をして今では福島県の一部でも栽培できるようになった。みかんの栽培分布図の遷移も日本の温暖化を示している。

数の子と野球

数の子はニシンの卵。昔は秋田、青森で獲れて函館が水揚げ港だった。それが温暖化で水揚げ港が小樽、留萌と北上。この温暖化は昔冬は雪で練習できなかった東北の高校が雪が少なくなり冬も練習できるようになり、甲子園で優勝できるようになるという変化を齎した。

ヒッピー族の研究

人間の生活を音楽と服装の視点から調べた。
外来の洋服。西洋音楽、西洋舞踏はバイオリンが中心。アルプスの北の寒い地方。寒い地方の身体の固い人が踊る直線的な踊り。明治初期にこの直線的な西洋音楽、西洋舞踏が日本に入ってきた。日本列島が温暖化するにつれ熱帯人種のジャズやロックの温かい音が流行。踊り方は熱帯の身体の柔らかい、上体も下半身もぐにゃぐにゃ動く度人踊り。温暖化の一つの現象。

“これは一つの見方だと理解できるが、この変化の原因が日本の温暖化とすぐには結びつかない。”

服装の流行。ヨーロッパの身体の固いヒトの服はゴーゴーやロックを踊るのに窮屈。若者は普段着は脱洋服となった。

“この点についても当時のヨーロッパの若者の服の変化を覚えていないので原田さんの主張を理解できていない。”

1968年、若い者に与える服の方向を決めるため渡米。何者にもとらわれないヒッピー族の調査。ロスアンゼルス3000人、ニューヨーク1500人、サンフランシスコ2000人。彼らの服装には統一性はない。これからは窮屈な服ではなく女性があぐらをかけるファッション。日本には過去に農家、大工、左官、医師の羽織ガウン。これらをアレンジしたデザインが若い人の流行になる。その時の著者の予想がその通りとなった。温暖化によって服装も変わる。”

“ここで服装の記述が唐突に出てくるが、それは著者が婦人雑誌の編集者だったから。”

役に立たなくなった俳句の季語

“温暖化だけではなく工業化や情報化によって生活様式が変わってしまったことをまとめている。”

日本が工業化と商業化により経済大国になれたのは食糧増産できて人口が増えたから。これらは温暖化によりもたらされた。地位の逆転、核家族化による家族制度の破壊、個人主義の台頭と悲惨な老人の増加。昭和40年以前に想像できなかった社会現象。米国の合理主義が急速に日本社会に入ってきたから。米国では個人主義が発達して行き詰まり、日本社会の終身雇用制度が研究されている。日本でも合理主義、個人主義が行きついたら引き返さざるを得なくなるだろう。
日本の温暖化は季節を変えて俳句の季語が本来の季節を示さなくなった。「木枯らし」「野分」「きゅうり」「なす」「稲妻」「雷」

温暖化説を利用した実例

当時、日本の毛布の半分以上を製造していた西川が、温暖化が長年続くと聞いて薄いカラフルな色彩の毛布を製造した。

第9章 回帰線の北上による北半球の変化

本章では北半球の国々の変化を扱う。

台湾

半分は熱帯。落葉樹はほとんどない。
日本で一番寒い一月に台湾は稲刈りとすぐに田植え。トマト、スイカ、トウモロコシ、さつまいも。
台北から山が見える。冬には雪の山が見えていたが、最近はほとんど見なくなった。

朝鮮

東の海岸に山脈。南、西に平野。緯度はそんなに北ではないのにオホーツク海から南下してくる第九の海流のため日本の本州に比べてかなり寒い。防寒対策としてオンドル、唐辛子、ニンニクの多い料理、温暖化によりオンドルを作らなくなった。川に氷が張らなくなり農産物の収穫高が増えた。南北とも工業が急速に発展。物価の高くなった日本に輸出。

中国

北回帰線が北上すると太陽の分量が多くなり、東と南に平野を持つ国が発展する。著者が子供の頃、中国の人口は4億、1978年頃は倍の8億人。日本の人口は3倍、中国の人口は2倍。どちらも北半球が温暖化したから。清国の時代、寒冷で食糧難に陥り、国民が海外に出ていった。これを禁止する国外逃亡禁止令を出した。

インド、パキスタン

インドの海に突き出している部分は熱帯。北回帰線の以北のニューデリー等は熱帯ではない。温暖化によりガンジス川下流では雨量が多くなり大洪水の回数が増えた。1971年、独立したバングラデシュは洪水で致命的な打撃を受け、それが原因でラーマン首相は失脚後、暗殺された(1975年)。

“Wikipediaには、ラーマン首相は独立後、政権が安定せずクーデターにより暗殺されたと記録されている。”

中央デカン高原では気温上昇で旱魃。食糧減少。食糧が獲れない時期が増えた。西側のパキスタン、アフガニスタンで、さらに旱魃が進んで、1978年頃までの10年で8万から10万人が餓死した。中国は温暖になったのでインドとの対立は緩和されるだろう。

アフリカ諸国

北緯20度から30度付近、西にはアラビア砂漠からリビア砂漠、サハラ砂漠と、西の大西洋岸までほとんど砂漠。エチオピアなど僅かに砂漠がない国があるが、太陽の北上で旱魃状態が進み経済が不安定に。

“wikipediaにエチオピアでは1970年からウォロ飢饉が発生。その後、皇帝が飢饉を隠蔽したり国民の怒りを買い革命により王朝は終わった。”

ソ連

中国、アメリカとは正反対に太陽の北上で被害を被った。1978年までの30年間で農業大臣が失脚。予定通り農産物の収穫高が得られていない。フルシチョフも失脚。農業生産が伸びない理由は2つ。一つは太陽の北上によるソ連南部の穀倉地帯の湿気、雨量の減少。ウクライナでも旱魃。北に移動すれば生産量は伸びるのだが、ヒトのサガとして南部の穀倉地帯でそのうち獲れるだろうと期待している。牧畜も停滞したため肉ではなく魚の収穫を上げようと日本近海での漁が盛んとなり、日本との軋轢を起こした。もう一つは、共産主義体制による農業。農地が全て国営であるため国民の生産意欲が高まらない。チェコは90%を農民のものとして食糧事情が一番に良くなった。その後、ポーランド、ハンガリーも90%は私有農地に。1971年ソ連は15%を私有農地にすると生産量の52%までが私有地での生産だった。残りの85%の国営農地は生産量の半分にも足りなかった。かつて永久凍土だったシベリアは温暖化により食糧生産できるようになった。ヤクーツクで30度を越すようになり。ノボシビルスクの人口は100万人を越した。

東欧諸国

チェコは私有農地化と温暖化により一般の暮らしは楽になった。西の自由国と隣り合っているので大量にソ連軍が進駐し、チェコ人の思想が西欧化するのを防いでいる。
ポーランドも温暖化の恩恵を受けている。東ドイツも同様。他の東欧諸国も食糧不安がなくなり工業化を進めている。

北欧

緯度が高く日照時間が少ないが太陽の北上で気温が高くなり日照時間は増えている。
ヘルシンキでも8月に1週間すべて30度を超す天候だった。
グリーンランドは元々氷の島だった。土着のエスキモーはアザラシを食していたが温暖化のためアザラシがいなくなり、タラを食すようになった。また、島の南側の氷が溶けて草が生えて緑の島となる。
アイスランドは第九の海流のため北極の下に流れ込む暖流の通路。さらに暖かくなった。

西ドイツ

平野が多い。気候が農作物に影響する。温暖化により増産。日照時間が長くなった。緯度が北なので旱魃になる程気温は上がらない。いつも空は曇って、しょぼしょぼ少量の雨が降る。

フランス

アルプス北のパリ方面はドイツ、ベルギー、オランダと同様、あまり太陽は輝らない。昔は30度を超すことはなかったが、1978年頃は毎年のように30度を超えるようになった。1977年、大雨でフランス中の川が氾濫した。アメリカ、日本は寒冷騒ぎ、欧州は異常温暖。これからも時々暖冬異変が起こる。オランダは日照時間が1年で30日程度であったのが増えた。

“昔、欧州では車にエアコンがなかった。しかし、1990年台からエアコンがつくようになった。”

イギリス

イギリスは千島より北にある。しかし、ヒトが住めるのは暖流によって温暖な気候になっているから。温暖な海流の影響でロンドンは冬に霧が多い。北半球の温暖化により冬が短くなると霧の日が少なくなる。1976年に夏から秋にかけて全然雨が降らなかった。多分、この間、青い空の日が多かったのだろう。温暖化が進むと時々、こんなことが起こるだろう。

地中海沿岸

地中海気象は冬3ヶ月、4ヶ月雨が降るだけで他の月は降らない。著者がかつて旅行した9月、スペイン、ギリシャでは5ヶ月も6ヶ月も雨が降っていなかった。イタリア南のシシリー島にはミイラが千体収めてある地下室のお墓があった。

アメリカ合衆国

東に広い平野、大西洋の湿気がかなり奥まで入ってくる。シカゴの五大湖からも大量の水蒸気が蒸発。この一帯の世界一広い農地は、北半球の温暖化によって増産目覚ましい。メキシコ湾を臨む南部もかなり平野があるので温暖化による増産。人口に比べて生産量が多いので世界40億の食糧が不足している地域に輸出している。(当時)勢力争いをしているソ連も食糧を輸入。対米政策に影響あり。今後100年くらいはこの傾向が続き、世界の人口増加の補給地帯であり続けるだろう。一方、中西部の砂漠地帯は砂漠化が進行する心配がある。ネバダ、アリゾナ、アイダホ、オレゴン。

米国は2018年から2022年まで食糧輸出量は増えている

カナダ

五大湖からオタワ、モントリオールの東部大平原は米国東部の平野に繋がり北半球の温暖化で食糧増産される。国力も増強。(当時)年々、輸出が増加し、世界の食糧補給国になってきた。

メキシコ

北緯20度から30度と地球上でも一番いい緯度にあるのに思うように発展しないのは大半が高原や山脈で平野が少ないから。砂漠化が進む心配あり。

北極

1971年9月15日、北極の氷を見に行った。かなり氷は小さくなり、中央に大きな亀裂があった。これも北半球温暖化の証拠。日本の新潟や山形地方の海岸の砂丘がだんだん海の中に沈んだのは北境の氷が溶けた結果かもしれないが正確には分からない。

第10章 回帰線の北上による南半球の変化

太陽の回帰線が北へ移動すると北半球は温暖化、南半球は寒冷化する。

チリ、ペルー

南極付近で寒冷化された海水がチリの海岸に沿って北上。南半球の寒冷化を最も強く受けるのはチリ。寒冷化で水蒸気が少なくなって、肥料、飼料、食糧が減少する。
“著者はチリを訪問したのかは不明”

ペルーは熱帯だが、北から上がってくる寒流の影響を受ける。沿岸で獲れる片口イワシは1970年代半ばに不良の年があった。その原因は寒流の冷却化だと著者は推論する。
#北回帰線北上による南半球寒冷化の影響は毎年あるのではないのか?単年度、片口イワシの不漁が寒冷化の原因なのか?他に原因はないのか?”

アルゼンチン

南大西洋海流がブラジルから南下してくる暖流地帯。東海岸はかなり奥まで平野がある。農業大国。小麦やとうもろこしの輸出国として知られていた。南半球の寒冷化で収穫量が減っている。とうもろこしを飼料として輸入していた日本の養鶏業者は採算が合わなくて困る事件が起きている。

ブラジル、ウルグアイ

ウルグアイは寒冷化が進み政情が不安定に。
ブラジルは赤道に近い国。コーヒー園が霜害で枯れたり減収。サンパウロは南緯23度27分、熱帯に近い気候。しかし、冬季は道路が凍流。

“ブラジルでも雪は降る。著者は寒冷で食糧不足になる地域は独裁政権でなければ統治できないと考えている。本当だろうか?”

オーストラリア、ニュージーランド

地球温暖化に関しては学者の説と著者の説は真反対。
それが最も顕著に出ているのはオーストラリアとニュージーランド。

オーストラリアは学者は温暖化を主張しているが、著者はオーストラリアの南北に長い南海岸からタスマニアにかけて寒冷化を主張。
この海岸線は南半球の温暖化時代、太陽が南下して、木や草が枯れて砂漠地帯になった。地球が東へ自転しているために起こる西風は海岸線より南に下がった。西風寒流も少し南へ下がった。最近、太陽が北上したので、西風寒流の暴風圏が北上して、オーストラリアの南岸に接近。寒い西風もオーストラリアの地上に吹き込むように。暑さのため旱魃になり砂漠になっていた南岸地方に雨量が増えて草が生えるようになり、水がなかった湖に水が溜まるように。

“ニュージーランドの記述はなかった。”

第11章 北半球の温暖化と林彪失脚の謎

「この北半球温暖化のために、あらゆるものが変化した。思想が変わり、戦争がなくなり、経済が上昇し、その他人間の世界にいろいろの変化が見られるようになった。」

本章の内容は気候変動ではないため記録しない。

第12章 十年ごとに変わった日本の社会

“本章は気候変動を扱っていないが、日本の近現代の変化を著者の視点でまとめてあるので記録する。”

社会の路線は十年周期

「日本列島が温暖化したここ六十年間の日本の社会の変わり方について、私の目で見てきた経験を述べてみる。明治末期から大正初期にかけては、まだ寒冷化のなごりで食料も不足だったし、国力も微弱だったりで、日清戦争で台湾を領有したり、日露戦争の後で朝鮮を合併したりしても、日本の貧乏時代は続いていた。妊娠中絶を厳重に禁止したため、人口はどんどん増えるし、農家の長男だけは跡目相続しても、次男、三男は行きどころがなかった。都会に出てきても仕事はないし、アメリカは移民法をつくって日本人を受け入れてくれない、ブラジル移民も輸送力はしれているし、失業者がどんどん増えて不景気のどん底に陥ったのは、第一次世界大戦の後の大正9年、10年の頃であった。その西暦1921年からこの60年間、日本の路線は、正確に10年ごとにきちんと変化した。・・・「人間というものは今の状態がいつまでも続けられるものではない。それを考えてその時になって慌てないように、普段からその覚悟を持って生きろ」・・・これがまた、私の生きてきた70年の相田、絶対1年も狂いがなく、10年ごとに路線が変わっていた。これには、調査した私も驚いた」

1921年(大正10年) 経済大恐慌、原敬暗殺、軍縮路線
1931年(昭和6年) 満州事変、大陸侵攻、軍拡路線
1941年(昭和16年) 大東亜戦争、日本破滅路線
1951年(昭和26年) 日本国再独立(日米講和条約)、工業万能、経済発展路線
1961年(昭和36年) 日本貧乏脱出、社会総逆転、商業万能、経済海外進出路線
1971年(昭和46年) 環境庁創設、整理反省不景気路線、公害問題、商工業行き詰まる
1981年(昭和56年) ?

1921年(大正10年) 経済大恐慌、原敬暗殺、軍縮路線
日本苦悩の時代
1921年は不安定のどん底。工場スト。左翼思想の勃興。軍備にお金を使い過ぎると軍縮説。
日英同盟の廃棄、米穀法、国有財産法、借地法、借家法、航空法
1920年八幡製鐵所の溶鉱炉の灯が消えた。1921年7月川崎造船所、三菱造船所がスト。
大正天皇が病弱なため昭和天皇が摂政に。
学生の左翼運動。二派(無政府主義, 共産主義)。共産主義は怖い。作家の有島武郎(大金持ちの一族が非難して耐えられず自殺)、志賀直哉が費用を支援。
大正12年 関東大震災。左翼と右翼。右翼(大化会、白龍会)は軍部が背景にいた。
失業者は40万人。1931年に爆発、満州事変。

1931年(昭和6年) 満州事変、大陸侵攻、軍拡路線
1931年満州事変。前年に東北、北海道で冷害。万宝山事件、柳条溝満鉄爆破、朝鮮軍、関東軍行動開始、チチハル占領
1932年第一次上海事変。不景気のため労働争議が982件。血盟団による暗殺。515事件、226事件。

満州事変から支那事変まで。著者は現地を訪れたことがある。また、家族が中国に駐留していた軍隊にいたので家族からも情報を収集。
張作霖との関係。満州馬賊の出身。関東軍が応援したのは、当時米国の後押しを受けて中国の主権を握っていた呉佩孚に対抗するため。
山海関で勝って北京に乗り込み南満州の帝王に。その後、満州での排日活動が原因で張作霖を暗殺。
日本で失業続出で日本人が満州へ。著者曰く、国内であぶれた質の悪い日本人が多かった。満州鉄道では日本人が全員乗るまで満人は改札口を入れなかった。客車も別々。日本人の客車がガラガラ、満人の客車はぎゅうぎゅう。日露戦争後、満州鉄道が日本保有。線路の両側何メートルかの幅は日本領土。奉天で事件があった。奉天は満鉄の奉天駅から東に日本人町、日本の警察署があった。満洲国は奉天城壁に囲まれていた。駅から4、5km離れていた。その途中は日本人と満人の住居が入り乱れていた。日本人が1日留守にしたら、家財がなくなっていた。調べると隣人が盗んでいた。日本人は隣人の満人から家財を取り返して乱暴した。満人は家財を返せば問題なしの文化。満人が満人の警察に通報して、日本人が逮捕。この事件を知った日本人の警察が、満人の警察署長を逮捕。この事件で関係が悪化。排日運動が起きた。

「満人は道徳観念が薄いし、日本人は横暴だし、どうしてもうまくゆかずに、排日騒動がますます多くなるのは仕方がなかった。これも満州事変の直接の導火線になったと思う。」

そのうち、着々と中国を統一していた蒋介石が中国の大総統に。満州は中国の領土なので、日本軍が占領するのは不都合。中国で排日運動。
天津での排日騒ぎで日本人が天津で商売できなくなった。当時の幣原外務大臣が蒋介石に排日を止めるように交渉したが解決せず。これを軟弱だと判断した天津の日本人が幣原外務大臣暗殺計画を立て、15丁のピストルを購入して暗殺団を日本へ送り込んだ。
満州事変の後、天津に幽閉されていた元清国の皇帝相続人、宣統帝を日本人が連れ出して満州国の国王にした。この事件が蒋介石を怒らせてますます排日がひどくなった。中国にいる関東軍が日本人を救済する名目で北京を占領。支那事変。

蒋介石は重慶に政府を移した。上海に別の中国政府、江精衛政府を作らせた。

ここまで、中国の状況。
ここから、日本の状況。

経済界の恐慌は続く。米騒動。冷害で米が不作だった。儲けているのは財閥、その片棒を担いでいるのが政府。血盟団事件、511事件、226事件。米騒動は富山発、東京、大阪、一時は手がつけられなかった。思想は荒木貞夫大将が熊本師団長から陸軍大臣になり、日本主義、欧米思想を捨てて純粋の日本人に戻れ発言。中国で日本軍が勝ったので、これまでの自由主義の欧米思想がなくなり、180度転換、日本主義に急速なスピードで移った。新聞、その他報道機関は厳重に内務省に検閲されていたので、反戦論は封印。日本主義の鼓吹一点張り。

この時期、著者は東京の宝塚歌劇に通っていた。女性の服の流行を知るため。それまで、派手柄の洋服の女性客が多かったが、日本主義が日本全体を覆い始めると地味な着物姿の女性客ばかりとなった。
戦争が続いていた時、派手な柄の着物を着る女性を見かけた。また、着物の柄のデザインコンテストで3賞のうち1つが派手柄だった。これを見た著者は、国民が戦争に飽きて、早く辞めて欲しいと感じていると思った。翌月、斎藤隆夫代議士が議会で反戦の大演説があった。内務省の検閲で反戦記事が表に出ていなかったが、この反戦の大演説は2ページの記事で公表された。

反戦機運の高まりの中、大東亜戦争が始まったのは、ヒトラーの英仏連合軍の撃破の大勝利が日本の軍部を刺激したから。あっという間に戦争に突入。

「これから先にはもう色がないという両極点の白と黒を生かしたデザインの白無垢と黒喪服は、やはり世界最高のデザインである。百万人が着ても、似合わない人は絶対一人もいないという服装は、この白無垢と黒喪服意外にはない。この2つを考案したことは、いかに日本人が色や柄に対してデリケートな感覚を持っているかの証明で、戦争などの世の中の思想が大変化する時には、そういう色や柄でそれを表現できたのが、日本の服飾の伝統である。」

1941年(昭和16年) 大東亜戦争、日本破滅路線

“大東亜戦争は欧米の植民地主義への抗戦だったと私は理解している。とは言うものの中国、東南アジアでは、支配する側と支配される側の関係があって現地の人が日本人に対して許し難い感情を持った人はいらっしゃったと推論する。私は当時、現地でどんな日常があったのか知らない。#戦争ビジネス の手段にされた人種差別をなくして、#核なき平和な世界 を体現するための活動を続ける。本学習の記録もそれを目的としている。”

昭和16年の歴史
4月 松岡外相、モスクワで日ソ中立同盟
7月2日 御前会議
7月25日 米国、日本資産凍結
7月26日 英国、日本資産凍結
7月29日 蘭領インド(インドネシア)日本資産凍結
8月 米国、対日石油輸出禁止
9月6日 御前会議
10月18日 東條内閣成立
11月5日 御前会議 対米甲、乙二案同時に連合艦隊に作戦命令
12月1日 御前会議
12月8日 真珠湾奇襲、宣戦布告

報道では連戦連勝だったが、日本の軍部が蓄積した大砲や戦車や飛行機がいつ足りなくなるか、日本国内の生活物資がいつ底をつくか、その時期を考えながら報道に喜べなかった。シンガポール陥落時に戦争をやめておけばよかった。

“シンガポールは1942年2月15日に陥落した。当時の日本は秋丸機関の調査、日英米が経済的に戦争が継続できる期間を政府と経済界の協力の元算出。その結果、英国へのインドからの資源の補給経路を断てば勝機ありと判断し、この計画に合意をしていた。それが、ひっくり返って真珠湾攻撃に至った経緯について詳細を知らない。シンガポール陥落時に防衛線を張って大東亜共栄圏の体制を確立せずに戦争を継続したのは何故なのだろう? #アドルフヒトラー さんは、#死の血盟団 の要員もしくは協力者であり、ユダヤの血が流れていながらホロコーストを実施。ユダヤの民がクローズアップされるが、実際には他の少数民族も粛清した。第2次世界大戦後の人類史を俯瞰すると、イスラエルの建国と日本人の粛清をこの時点で死の血盟団が意思決定していたと推論する。当初、ドイツが連戦連勝していたのは、日本に宣戦布告させて、戦争に乗り気でなかった米国の民を戦争に巻き込む意図が働いていた。明治天皇はすり替えられたと言うことを主張しているヒトがいる。#田布施システム と言われている。 #豊臣秀吉 さんの時代から続く、日本侵略計画は、ロスチャイルド家に通じる #トマスグラバー さんに繋がっている。薩長はグラバーさんが支援していたとすると、討幕は日本侵略計画の中で行われたとの見方ができる。明治維新後、西洋の軍隊を導入。海軍はイギリスから、陸軍はフランスやドイツから教えを乞うた。これは、後に陸軍と海軍が犬猿の仲になった原因ではないのか?”

「私はある時、一番常識があると思っていた陸軍報道部の秋山中佐の自宅に押しかけて、夜の終電車まで何時間も膝詰めで話したことがあった。秋山中佐という人は、俳句を作ったりして非常に物分かりのいい人だったから、私の失礼な言葉にも怒るようなことはなかった。その時、「この戦争は負けるほかないじゃあありませんか」と言った私に、中佐は「負けです」とはっきり返事をした。これが陸軍省の重要機関にいる将校の返事だった。しかし、日本が負けることを一番よく知っていたのは東條英機その人だったと思う。この戦争が途中でやめられなかったもう一つの原因は、戦争に待ったをかけてくれる第三者がいなかったことである。日清戦争の時も日露戦争の時も、間に入ってくれた国があった。今度バカらいは、日・独・伊と英・米・仏の世界を二分した戦争だったから、間に立つ第三者の国がなかった。これが最大の悲劇だったというのが真相だと思う。」

マッカーサーの占領、海外戦地からの兵士の帰還。これが混乱しなかった、日本人が捕虜として苛烈な目に遭わなかったのは不思議。ソ連と米国の分割統治になっていたら朝鮮半島、ドイツと同じようになっていただろう。アメリカ人も中国人もそろばんの民だからそうしたのだろう。

「いつか日本の新聞社が主催して、支那事変の時に日本軍が中国でどんなに悪いことをしたか、中国人を虐殺したりした事実を調べて後へ書き残しておかなければならないと、調査団を作って中国へやったことがあった。中国はびっくりして「日本人とは何て変な民族だろう。そんなことを掘り起こして何のプラスになるか。日本交渉の邪魔になるマイナスだけではないか。いい加減やめてくれ」と言ったという話を聞いた。現在、日本人が赤軍と称してパレスチナのゲリラ達と一緒になって、ハイジャックなどで暴れているのも、世界中から、日本人という奇怪な民族と見られている。日本人も、中国人やアメリカ人の、ソロバンで割り切れる合理主義を見習うべきだと思う。」

“著者は人類史と世界の仕組みをどう理解していたのだろうか?また、人種差別撤廃に対してどう取り組んでいたのだろう?1717年以前から活動している #悪魔崇拝者 が牛耳る #死の血盟団 の存在は否定するのか?それとも肯定するのか?”

「所詮、国際間の連盟とか条約とか、そういうものは、いざとなったら何の役にも立たないという証明を見せつけられたようなものである。今でも、日本は軍備をしない中立国であると宣言しているが、中立さえ宣言すれば戦争から免れるというようなことは、あまりにも現実を離れた考え方である。日清戦争は、日本でやったわけでも中国でやったわけでもない。中立の朝鮮がその戦場になった。日露戦争は、ロシアでやったわけでも日本でやったわけでもない。第三者である満州が戦場になった。やがて、北半球の寒冷化時代がきて大戦争が始まるだろう。それはアメリカかソ連か中国かわからないが、多分、その時の戦場は日本ということになるだろう。何しろ、日本は軍備がなくて経済だけである。どちら側にしても、早く日本を占領してその経済力を利用する方が有利になる。その時、日本は中立国だと言ってみたところで、そんなことが通るはずはない。国連とか二カ国間の条約とか、そんなことは紙屑に過ぎない。敗戦の時のソ連のやったことでも、簡単に証明されている。一方が日本を占領して、日本の経済を利用されては相手がたまらない。そこで、徹底的に日本を爆撃して、利用できないように完全に破壊するか、または上陸してきて日本を占領するか、どちらにしても、その時は日本が戦場になって全滅し、日本という国は地球上から消されてしまうことになる可能性が非常に強いと思う。これは、北回帰線が南下して、北半球に太陽が少なくなり、水が少なくなり、肥料、飼料、食糧が減ってくる、その時である。昭和50年に、韓国の空軍将校たちが、日本の航空自衛隊の見学に来た帰りに何と言ったか。「今なら、我々は1週間で日本を占領してみせる。少し手強いのは習志野だけで、あとは問題にならない」そう言って帰った。韓国にさえそう見られているのだから、米ソや中国などから見たら、日本の自衛力などは、吹けば飛ぶようなものに見えるだろう。日本が中立さえ守れば安全であるという知識人や政治家は、まるで絵に描いた餅が食べられると思っているのだろうか。非常識というよりも、滑稽に感じる。」

“著者は29名の日本人CIAエージェントがいたことを知っているのだろうか?日本テレビの設立者 #正力松太郎 さんは、リストに入っている。昭和天皇は #死の血盟団 の要員であった可能性は否定できない。「原爆は仕方なかった」と発言している。貧富の差を拡大する手段としての戦争ビジネス、人口削減を目的とするワクチンビジネスと環境ビジネス。この図式を世界中の民と共有して、各国の極一部の家系による国民国家における国家反逆罪を問うという活動を広めて行きたい。”

「日本の軍部が解消し、財閥が没落し、政治関係者が追放になると、日本の社会はどうなったのか。一番目立ったのは、左翼共産党の活躍だった。」
農地法で田畑が自分のものになり地主になったので共産党が不要となった。
「この6年間のマッカーサー政治がいかに素晴らしかったか、調べれば調べるほど感心する。最初の3年間は、日本が当分無謀な戦争ができないように、日本の体質の改善に努力して行った。そのため、その原動力となった軍部、政治、財界の解体に全力をあげた。そのため、軍人の追放、政治家の戦犯、財界の解体、独占禁止等、次々と実施して、この政策はほとんど2年間で感染した。その後、何をしたか。今度は振り子が反動で右から左へ行き過ぎて、日本が共産化の危険を感じてきたので、左翼の弾圧と日本再建国の準備を、着々と実行した。」
「今、反米主義の共産党がこのマッカーサー憲法を擁護しているというのも変なものである。現在、金森先生が5在世だったら、改正をしたいところがかなりあるのではないかと思う。」

“著者は日本の國體をどう捉えているのか?人類史と世界の仕組みをどう捉えているのか?この2つにおける自身の役割をどう捉えているのか?著者の人類の到達点を知りたい。”

1951年(昭和26年) 日本国再独立(日米講和条約)、工業万能、経済発展路線
「マッカーサー司令部は、軍、政、財の体質改善が完成すると、新しい日本の建設と、共産国にもなりかねないほど盛り上がっている左翼運動を、今度は押さえにかかった。」

昭和25年
日本の自衛権強調
東京の露店整理始まる
一般追放者解除 10000名
旧軍人追放解除 3250名
国家警察予備隊設置 75000名
海上保安庁増員 8000名

政府機関の共産党員整理 1171名
民間産業の共産党追放 18000名

昭和26年(大東亜戦争のちょうど10年目)
1月
マッカーサー元帥日本の細部層強調
自立経済三カ年計画
民営の米屋を登録
歌舞伎座会場
3月
マチス展
日本交響楽団発足
4月
マッカーサー元帥日めん
文化綱領者年金法
5月
日本国際オリンピック復活決定
児童憲章制定
6月
新土地収用法、民事調停法交布
財閥解体官僚
第一次追放解除、石橋湛山ら2958名
8月
第二次追放解除、鳩山一郎ら13900余名
9月
日本再独立決定の対米講和条約(サンフランシスコ条約)、日米安保条約
10月
主食統制令撤廃支持(吉田首相)
11月
日本経済協力連絡協議会設置

昭和27年 後始末のような新しい日本の建設を整備
1 石油、砂糖の統制解除
2 最後の追放解除5700名
3 海上整備隊創設
4 連合国司令部解消
5 日米加漁業協定
6 兵器製造許可
7 ヘルシンキオリンピック出場
8 農地法、航空法制定
9 法務省法制局、自治省、保安庁、経済審議庁、電電公社等発足
10 警察予備隊を保安隊に改組
11 燃料油の統制解除

ここから昭和36年までが日本の経済復興工業路線 工場を建てればどんなものでも儲かるという工場万能時代が続いた。

1961年(昭和36年) 日本貧乏脱出、社会総逆転、商業万能、経済海外進出路線

何百年か続いた貧乏国日本が金持ち国に転換。
熱海、伊東、別府の温泉湯のお客の数が男性より女性が多くなった。男性はビジネスだが、女性は純粋に観光。観光で温泉に行ける女性の数が増えた。
求人が求職を上回った。

“経営者は労働者を蔑視しているのか?と疑われるような記述あり。経営者による労働者の差別。道徳が喪失するものだとする記述がある。著者は乱暴に単純な視点になってしまう認知モデルなのかも知れない。”

女性が働き始めて亭主関白がなくなり、姑がいるところにお嫁に行かなくなった。家族制度では大家族で住んでいたが核家族化が始まり老人が不幸になり始めた。老人は国家が面倒を見る。
工業路線から商業路線への転換。三井物産、三菱商事、丸紅、伊藤忠、住友商事、日商岩井等
日本では価格が安かった。商品の質は上がった。商社マンが世界中に日本製品を売りまくった。
商社は貿易だけでなく、国内で土地を買い漁り、建築、道路工事、魚や肉、ゴルフ場、ボーリング場
田中角栄「日本列島改造論」
この反映は温暖化による食糧増産にある。商社が米を売るようになった。

1971年(昭和46年) 環境庁創設、整理反省不景気路線、公害問題、商工業行き詰まる

工業路線10年、商業路線10年で日本は経済大国へ。米国はこの変化を理解できたが、欧州は理解できなかった。
結果、国内に無数の工場。海は汚れ魚は住めないほど。農薬でドジョウ、イナゴが死んだ。市原の梨が奇形に。奇形児が生まれるように。
環境庁発足。環境浄化。
東南アジアへの日本進出の歓迎ムードが逆転。
この変化を認知できない企業が倒産。日本熱学、興人、照国海運。
商社は昭和49年、50年になっても大量採用し、半年、1年、自宅待機にさせていた。
昭和47年に我慢していた個人の主張がはじまった。日照権。飛行場、新幹線の騒音公害。高速道路の排ガス。赤ちゃんの捨て子。
「不景気路線は、50年、51年と深刻になって、1000万円以上の借金を残して倒産した会社の数は、3年間に4万何千という数にのぼって、日本は再び16年の時点と同じように就職難時代がくる方向を示している。48年頃だったと思うが、警視庁から講演を頼まれて四百数十人集めて講演した時、この路線変更の話をして「今まではいくら警察官募集の張り紙をしても応募者がなかったが、これからは警察官になるのも、東大並みの狭き門になるよ」と言ったら、どっと笑い声が起こった。その時「いや、警察官だけではない。あれだけ嫌がられている自衛隊の方も、来年あたりからは志願者が増えて、3年後にはかなり狭いもんになるだろう。何しろ警察官や自衛隊は国家から月給がもらえるから」という抗議をしたが、世の中はだいたいその通りになって、今は学校の教員をはじめ公務員志願者が圧倒的に増えてきた。
「「水田さんなどは本当に運が良かったね。経済大行進の時はいつも大蔵大臣をやったので、パッパッと気前よく各省の要求通りお金を出しても、集まった税金は残ってしまった。かわいそうに、今の大平さんは破産した大蔵省を引き受けたので、いくら知恵を絞っても、この不景気ではお金の集めようもない。これから先の大蔵大臣も、みんな当分は苦しむだろう。誰が政治をしても、景気を直すことは56年まではできないからな」という話をした。」
「この路線変更に一番敏感なのは、もちろん損か得かの商売をやっている実業界である。その反対に、一番鈍感なのは、絶対に失業もしない、月給も棒給も心配ない公務員や公共事業の従業員である。」
昭和57年から新しい路線になる。

“P.297から299には昭和50年から日本は供給過剰であったことが示されている。”

1981年(昭和56年) ?

“1980年台は1990年台後半のバブル期の前。私が社会人になった1988年は景気が良くて求人が多く、内定者の囲い込みがあった。”

第13章 関東大地震はいつ起こるか

記録に残った大地震

地震のメカニズム
1 陥没地震
2 火山の噴火
3 平衡地震

関東大震災は平野であり平衡地震。だから、かなり、はっきりとした周期で起こるはず。

関東の大きな地震の歴史
1 1241年
2 1307年
3 1370年
4 1433年
5 1494年
(この後、3周期分、200年間地震の記録なし、1649年は周期の中に入っていない)
6 1697年
7 1855年
8 1923年

“1649年を周期に入れない理由は何なんだろう?”

東京湾と相模湾が交互で震源になっている。
間隔の1番長いのは68年、一番短いのが61年。

(1978年出版時点で)一番早く起こると1984年、遅くなると1991年。

“著者の予測した期間に関東ではい震災は起きていな。”

この目で見た関東大震災

著者は大正12年の関東大震災の直後、自転車で都内16ヶ所の火元調査を行った。地震で発生した火元。
3万何千人の死体 被服厰跡
無数の死体 安田別邸の庭
隅田川 ぶくぶくと死骸が浮いていた

火災のあった地域は空気が足りない状態になっていた。
道路に出していた家財が灰も残らず燃えた。
家財が道路に溢れていたので消防車が通れなかった。

次の大地震の被害予想

超特大被害
・東京湾全滅
・工場ぼ爆発、火災、毒ガス
・地下街、地下鉄の全滅
重大被害
・高層ビル火災
大被害
・過密木造住宅店舗の火災
・高速道路、橋などの落下
・崖崩れと家屋の埋没
超特別被害
・水道の使用不可能の危険

特別秘録 日露戦争の真相

世界一の親日国

トルコは親日国。エピソード、著者がヤルタに行った時のトルコの外交官、アテネ行きの飛行機でのトルコの婦人記者。
トルコはロシアに負けて小国になった。その悔しさ消えぬ間に起きたのが日露戦争。

著者が出会った市川氏の体験談の記録

観音崎の大砲

逓信省御用船「沖縄丸」
旅順
海底電線
佐世保の軍司令部
ロシアの極東艦隊
日露戦争記念館
要塞砲

碇にかかった海底電線

軍神広瀬中佐
初瀬
八島

満州軍2年間の食糧

巨文島
児玉源太郎
有栖川宮
山階宮
大山巌
山縣有朋
松方伯爵
芳川内相
小村外相
寺内陸相
野津大将
上原少将
伊藤博文
桂総理大臣
山本海相
久保田文相
田中義一少佐
東郷大将
乃木大将
長岡外史中将
奉天
後藤新平
嘉義米
財部大将

バルチック艦隊近づく

フランス、ドイツはロシアの味方
イギリスは日本の味方
イギリスがバルチック艦隊の場所を教えてくれた
鎮海湾
対馬
竹敷要塞
台湾海峡
澎湖島
三井物産上海支社長森格
加藤友三郎

台湾海峡で待ち伏せしていた日本海軍の前にバルチック艦隊は現れない。
痺れを切らして津軽海峡に移動しようとの進言を東郷大将が「いかん」と却下。
この却下が日本海軍の勝利につながった。

おくれた発見信号

バルチック艦隊を見つけたのは日本郵船の客船「信濃丸」
船長 成川揆

信濃丸はロシアの軍艦の間に挟まれて同じ速度で航行。
発見後すぐに打電せず、どのルートを通るか見極めて打電。

陸戦にはT字戦法
海戦では先頭にいるのか旗艦で必ず司令官長が乗っている。
開戦したら旗艦以外からは一切電信を打たない。

大胆な敵前旋回

被弾したのはロシア艦隊ばかり。
対馬の瓢箪型の北のくびれ目でロシア艦隊を日本艦隊が包囲する形に。
夜になり包囲をといた。
そこに水雷艇団がやってきて暗闇の中、魚雷をロシア艦隊に向かって発射。

「大砲が命中しても沈まないが、横っ腹へ魚雷を撃ち込まれてはたまらない。」

我は曳航して佐世保に向かう

さざなみ
相馬艦長
伊藤中尉
塚本中尉
バルチック艦隊指令長官ロジストウエンスキー中将

日露比較
ロシア側損失
排水量 195162トン(日本 252トン)
戦死者 454名 捕虜 610名(日本 戦死者 107名)
ウラジオストクに逃げ帰った船 ヨット式巡洋艦1隻、駆逐艦二隻、特務艦一隻(日本 損失は水雷艇三隻 89トン一隻、83トン二隻)

1分間に打った砲弾数
ロシア134発 日本360発
1分間に飛ばした金属の重量
ロシア2万フント(1フント100匁) 日本5万3千フント
火薬
ロシア12インチ砲弾 15フント綿火薬 日本同 105フント下瀬火薬
1分間に飛ばした火薬
ロシア500フント 日本7500フント

“戦争で捕虜になった者が死亡した記述。病院で負傷者を治療しなかったのでは?墓標はロシアが出鱈目を記録したのでは?”

ニコライ2世は捕虜に食糧を与えるなと指示を出していた。
ロシア側の責任者は皆、責任を取らされていた。

“ロシアの勢力を削ぐことがイギリス、ドイツ、フランスの共通目的になっていたのではないか?ニコライ2世は戦争にあまりお金をかけたくなかったのではないか?日本はイギリスから莫大な借金を負わされて長い間国力をつけれないような体制を取らされていたのではないか?我が家が贅沢をするためならば大量のヒトがお亡くなりになられても構わないとする認知モデルの終焉。”

あとがき

生にこだわる。本は読まない。現地に行って確認すると教科書が間違っていることがわかる。

諏訪湖の凍結記録について

「北半球の温暖、寒冷の証明で一番確実なものは、諏訪湖の凍結記録であると思われる。室町幕府の命令で、1443年から凍結日の記録を毎年幕府のほうに知らせることになった。諏訪大社は上社が諏訪湖の東にあって、下社は諏訪湖の西側にある。その下社は、さらに春宮、秋宮の二社に分かれていて、秋宮が諏訪湖に近いところにあるため、この諏訪湖の凍結記録は、秋宮が担当することになった。」

御神渡

おわりに=Outcome

私は地球温暖化はCO2よりも天体運行、太陽の活動、地軸の傾きに起因すると考えている。
本著にある北回帰線が北上しているのが事実であるならば、これが原因であると考える。
お金持ちは戦争ビジネスに飽き足らず、ワクチンビジネスと環境ビジネスを確立して、貧富の差を拡大することによる搾取と支配の体制を延命させようとしている。自分達の人口比がどんどん小さくなっているにも関わらず。
自然現象を人為的であるとの主張は、その後に必ずお金儲けの仕組みを提示して、それをゴリ押しして運用しようとする。
BRICSが立ち上がり、どこの国も貧富の差が拡大している人類史は、極一部のお金持ちの家系が特定され、その家系の財産を何に使うつもりなのか世界中のヒトが尋ねている時代に突入している。

お金を使わず日常生活を安定稼働する次世代の社会システムを一緒に創って行きましょう!

 - グローバル, 社会, 解決 , ,

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