学習の記録 家康の誤算(2023)
2024/11/09
2024年10月18日記録開始 2024年11月9日学習終了
磯田道央, 家康の誤算, PHP新書(2023)
はじめに=Background
学校で学んだ徳川時代265年と、欧州の覇権主義、植民地主義と結びつけることはできなかった。
本学習では、江戸時代の終焉と、令和の今を結びつける。この間に起きた大東亜戦争への影響を考察する。更に、新たに得た知識を人類から人種差別を撤廃する活動計画に組み込む。
成果=Output
本著の記述は「 」、私のコメントは” “、何も付さない記録は本文の要約。
まえがき
徳川家康の作った仕組みをまとめる。徳川時代が近現代日本史に与えた影響を考察する。
第一章 家康はなぜ、幕藩体制を創ることができたのか
家康の生い立ち
1542年生誕 三河国岡崎城主 松平広忠の嫡男
駿河の今川家、尾張の織田家、甲斐の武田家の「三強国」に囲まれていた
尾張は経済大国、何度も三河に侵攻できる。三河は文化の境目。日本に限らず文化の境目は紛争が起きやすい。アラスカ・ロシア、千島、竹島、尖閣、中越国境、カシミール、アラビア海、黒海、ロシア・ポーランド国境。
日本の山岳兵、武田軍。世界的にも山の民は戦に強い。
家康幼少期の松平家は今川家の庇護下、自立していなかった。
当時、松平家は名門とはされていなかったが、余所者の僧侶の徳阿弥が婿養子に入ってから一体を取りまとめた。祖父の清康の人望厚く、周囲が家康と清康をダブらせ三河の民から期待されていた。
今川家時代
1545年 離縁された母於大17歳が実家水野家に帰る。その2年前、当主が水野信元に代わり水野家が今川家を離れ織田家(敵)についたため。
1547年 父広忠が織田家に敗れたため家康5歳が織田家の人質に。緊張の日々。
1549年 人質生活終了。家康7歳。太原雪斎が信広を生け取りにして家康と交換。今川家で実践的学問をお供と一緒に吸収。今川家と親交のあった公家にも接した。中央と天下の感覚に接する。
桶狭間
1556年 桶狭間の戦い。義元討ち死に。直後、大高城に籠城していたが、岡崎城に入城。家康14歳。今川家の新当主氏真。
岡崎城で織田防御役。しかし、氏真は家康と織田家との戦には援軍を遣さないと判断。駿府に残している嫡男信康を奪還して織田家につくことに決めた。東三河地域を親今川家から親松平家へ。
1562年 氏真の親戚鵜殿家の子供を生捕り信康と交換。以後、家康20歳は東方へ勢力拡大。信長との同盟へ。
本能寺
1582年 本能寺の変。家康40歳。堺から三河に戻る。死亡した信長の領地、甲斐信濃に領地を広げ武田家の旧臣を取り込む。野戦戦闘力向上。この年には武田が滅び、松平家を脅かしていた今川、武田、織田がいなくなった。
秀吉との対決
1584年 小牧・長久手の戦。秀吉大軍と家康42歳信雄(信長の嫡男)連合小軍。家康信康連合が「ヒットアンドアウェイ」作戦で勝利。
天正地震 家康は被害小、秀吉は被害大。
1586年 秀吉は家康44歳と和平。家康は秀吉に臣従。
秀吉、信長は領土拡大覇権主義、家康は家を守る。
秀吉は公家の利権を侵食。関白、大納言、中納言を家族や家来に。公家は役職を押し出された。
1615年 家康は秀吉を討伐。武家の官位と公家の官位を分けて、公家の利権を守った。
分限棲み分け線:分という持ち場の限りを守っていれば、家の永続が保障される仕組みを、日本全土につくり、長期政権への道を切り拓いた。
家康による「家の再生劇」に学ぶ
家康は海外に関心を持っていた。鎖国にしたのは三代家光。
家康も周辺国との外交に腐心した。中国の中華思想。秀吉が出兵した後の関係の修復。中国の属国になるつもりはなかった。国家間の付き合いはせず、貿易商を通じて外交をした。間にワンクッション置く。
現代の世界情勢と当時の日本情勢の比較。
米国の傘下に入っていたが、米国の権勢に翳りが見えて、中国が台頭してきた。
家康は今川との同盟を結んでいたが、情勢の変化によって織田との同盟に切り替えた。
松平家は領土拡大の野望に燃える甲斐信玄の武力に怯えていた。中国の中華思想のリスクにさらされている現在の日本。
“最後、商人を介した外交の史実が出てきた。秀吉の時代から欧州の覇権主義は日本に届いていた。それを跳ね除けていたが、明治維新はロスチャイルド家のお金の力が後押しした。江戸時代は寒冷機でお米が取れず、年貢で農民が苦労した。飢饉で実際に餓死者も出ている。厳しい年貢の取り立てが原因で一揆が起きている。家系を絶やさず、食糧生産力を落とさず。鎖国により外交努力は、黒船時代までなかった。経験は長崎の出島にしかなかった。オランダ経由で欧州の産業革命の情報は届いていたが、それを知るのはごく一部だったのだろう。信長、秀吉、家康による天下布武の後、太平の世を築いた日本文化。公家と武士が社会を動かしてきた。商人が社会を動かした時代は令和にもない。お金が共同体、経済の中心だった時代はない。”
第二章 江戸時代、誰が「神君の仕組み」を崩したのか
家康の「平和の仕掛け」の変遷をまとめる。
家康の想定しなかった時代の変化に時の将軍が対応した結果、変遷していく。
1603年 家康征夷大将軍
1615年 家康大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼす 元号「元和」(平和の元)
ブレーン 以心崇伝(国家モデルは源頼朝 ブレーン 大江広元)
武家諸法度(伏見城)
禁中並公家諸法度(二条城)
仕組みを変えた将軍
二代秀忠(1605年から1623年)
三代家光(1623年から1651年)
八代吉宗(1716年から1745年)
十四代家持(1858年から1866年)
家康の仕組みの変遷を政策史、制度史を江戸時代後期の歴史学者頼山陽の「通議」から読み解く
改易制度の緩和ー有力な外様大名が生き残る
正統な嫡男ができなければ家を取り潰す制度(無嗣改易)を緩和して結果的に倒幕することになった外様大名の家系が残った。
将軍家ではなく、大名の家系から養子で位を得た将軍達が養子でも家督を継げる制度にした。
人質制度の廃止
幕府に抵抗する力を蓄えさせない。2つの政策
1 武家諸法度による参勤交代、財力を落とすための政策。
→十四代家持時代、異国の船が日本近海に現れるようになった。祖国防衛のために財を振り向ける。参勤交代廃止。
2 人質。大名証人制度、正室と嫡子、家老の子を江戸の屋敷に住まわす。
→四代家綱時代、藩主の人質だけ→十四代家持時代、藩主の正室と嫡子も国へ帰す。
この2つの政策が無効になった結果、
長州と京都で戦争、大名は将軍の家来でなく天皇の家来で領土の国主。
文久の改革、幕府の政策決定に関与しない徳川一門、外様、公家。
城と大船の建造解禁
1615年 一国一城令
家康 大名が立て籠る城の数を制限して防御力を弱める
大名 重臣や親戚は皆ライバル。みんなを城下に住まわせて監視する。立て籠る城はなくなる。
南九州と東北では守られていない。
幕末、西洋の接近により国防を理由に制度が無力化
大名の軍備拡張、幕府との均衡が破れる
1609年 大船建造の禁
500石以上の船を没収、所有と建造を禁止
西洋の脅威まで続く
1853年 安政の改革
ペリー来航後、老中 阿部正弘 さん、解禁。軍艦、大船の建造保有許可。
1855年 長崎 海軍伝習所
後に討幕の主役となる藩にも西洋の海軍技術を習得させた
新たな通貨の鋳造
江戸時代初期、西日本は銀、東日本は金が使われていた。
西日本は中国の影響、東日本は甲州、伊豆、佐渡の金山の影響。
家康は金銀の他、中国の銅銭「永楽通宝」も使用し続ける。それまでの通貨を変えなかった。
家光の時代、中国の銅銭をやめて日本の銅銭「寛永通宝」に一本化。
幕府独占とせず、許可を取れば大名も鋳造可能に。
次の高額通貨「天保通宝」も幕府独占ではなく大名も鋳造可能に。
結果的に、贋金が流通するようになり、大名の力が増して、幕府転覆に繋がった。と著者は考えている。
外交の不安定な動き
家康 ヨーロッパ、アジア、北米大陸、メキシコとも外交
二代目秀忠 カトリック教国への警戒強まる。布教のないオランダ東インド会社との交易のみ。国家ではなく会社。
三代目家光 洋書の輸入を禁止。
八代目吉宗 洋書の輸入禁止を緩和。西洋医学書等、実用書、教科書を輸入
十一代目家斉 オランダの正月(クリスマス)を蘭学者大槻玄沢の塾「芝蘭堂」で祝う。
眼科医土生玄碩 原料植物を見つけて瞳孔散大薬を製造
大黒屋光太夫 漂流して帝政ロシアへ帰国後知識伝達
十二代目家慶 蛮社の獄(1839) 蘭学者の弾圧
意思決定機関の劣化
家康はすべて自分で決めていた。
幕府の体制として「徳川一門、外様大名は政策決定に参加しない」としていた。
「力があるものに権限はなく、権限あるものに力はなく」
大老が政策決定をする体制を作った。
大老を世襲制にしていたので「世襲の弊害」が出てきた。
家禄で政策決定参加を決めていたが課題は解決できず。
優秀者を登用して家禄の不足分を支給。
田沼家次が登用された。息子が殺害され本人も失脚。妬みがこの制度の障害に。
阿部正弘が限られたヒトによる政策決定から衆知を集める体制に移行。「言路洞開」
「人材登用」
「公義與論」「公議政体」
下級武士の政治への参加。これが明治政府の体制へ。
“計画と実行の分離。江戸時代からあった。泰平の世では何を政策決定していたのだろう?石高は決まっている。世襲制。食糧難があると一揆のリスクや餓死者が出るリスクがある。食糧の確保や増産を武士は政策決定できたのか?”
第三章 幕末、「神君の仕組み」はかくして崩壊した
江戸時代、天皇はどう変容したか
三代家光までは天皇から「征夷大将軍」拝命のため京都へ行った。しかし、四代家綱から京都へ行かず「征夷大将軍」に。
それが、幕末に復活。十四代家持が京都へ行き、そのまま、長州戦争を大阪城で指揮。十五代慶喜は在京中に将軍に。以後、江戸に帰らず大政奉還。
江戸時代、初期京都の人口は40万人、幕末は20万人。家康は大名と天皇との関係を断つ。参勤交代時、京都に寄らせず。親族ある大名のみ許可。
大名は公家から嫁を迎え入れ、全ての大名が皇族と親戚になった。これは大名に公家文化が広がった理由。これは一般庶民にも広がる。
“子供の頃から天皇家が好きなヒト、祖父母の年代の人たち、が多くて、その理由が分からなかった。鎌倉時代以降、公家が農民を虐げる政治とは関係がなくなった。武家の時代が長く、皇族は武家よりも庶民に近かったのかも知れない。”
寛政年間(1789〜1801)に尊王思想が日本社会に芽生えた。と著者は主張している。
頼山陽「日本外史」「通議」を出版。「本来、日本の政権は天皇にあり、武家が持っているのは特異な姿」
阿部正弘が開いたパンドラの箱
尊王思想が幕府にも。
1853 黒船来航 備中福山城藩主 阿部正弘
家康の人質時代、随従した阿部正勝の子孫。大老井伊直弼よりも格下。
「人材登用」「言路洞開」
政治に参加できる者の変化、「処士横議」(三人以上で徒党を組み政治議論すること)禁止を廃止。
変化前:老中、家老、奉行→変化後:誰もが政策提言できるように。朝廷も。
地方の大名が「京都手入れ」皇族、公家に通じて自分たちの都合のいい政策決定を試みる。 戊午の密勅(1858) 水戸藩が光明天皇からこっそり勅命を引き出す。
同年、井伊直弼の安政の大獄。「京都手入れ」の各藩を弾圧。「桜田門外ノ変」
京都に集まった浪士たちの失敗
高山彦九郎 草莽之臣(自分がそう思ったら天皇の家来になれる)
吉田松陰 草莽崛起論(在野の士よ立ち上がれ)
武士に虐げられていたインテリや豪農・豪商が討幕の活動を支えた。
京都でテロ発生。その対策に新撰組結成。
天皇の行幸 攘夷を祈願して神社参り 天皇が前、将軍が後ろ 民衆に天皇と将軍との関係を見える化した
浪士と一部の公家が討幕目的の行幸を企てた。孝明天皇が攘夷は幕府の勤めと考え、1863年「8月18日の政変」により、幕府による浪士と公家の弾圧。
非現実的な長州、武力を見せつける薩摩
1863年 8月18日の政変で長州藩が浪士の黒幕扱いとなり京都を追放。長州藩士は孝明天皇が悪いのではなく側近の他藩藩士を悪人とした。
1864年7月 長州藩反撃。京都制圧を目的に兵を上洛。禁門の変。天皇を守っていた薩摩、会津、一会桑。直後、長州征伐の命が天皇より発出。西郷隆盛が講和成立。
慶喜の将軍就任と孝明天皇の死
禁門の変の後、幕府から一会桑に政権が移行。他藩の京における軍備に目を光らせる。
ペリー来航時より、水戸藩が藩の資金力と軍事力を背景に皇族、公家に政治工作「京都手入れ」を始める。1860年代は薩長のみならず、岡山藩、広島藩も、どこの藩も京都での政治外交を活発化。
高杉晋作がクーデターを起こして長州で実権を握る。第二次長州征伐、1866年、十四代家茂が大阪城で死亡。
由伸がすぐに将軍にならず、孝明天皇が懇願を受けて将軍に。この時期が将軍空位。公家、大名の中には「将軍なき合議制」を望んだ者もいただろうと著者は推論。慶喜の将軍就任から20日後、孝明天皇崩御。
慶喜は在日フランス公使のロシュと会談、フランス型近代国家を創ることを決意。ロシュから税制改革のアドバイス。田畑の産物、商売や産品からの税が減ってきたので、田畑以外の産物に課税。近代西洋の軍隊と製鉄所。幕府の力で京都を納める。
慶喜のこの意図に慌てた西郷隆盛は薩長同盟で武力討幕することに。
1867年 土佐藩は大政奉還に動く。「倒幕の密勅」が下りる前に慶喜は大政奉還。
新しい政治体制を創る活動をしていた坂本龍馬が土佐藩を薩長に組み込む意図ありとされて暗殺。
京都における政局の終焉
薩長は徳川色を完全に無くした新政府を目指し、徳川側は新政府にも幕府の体制を組み込もうとしていた。
慶喜が天皇を守護していたが、御所入り口の警備を薩長側に交代されてしまい天皇が薩長側へ。
明治天皇を守護する薩長が幕府、摂政、関白を廃止した新政府樹立。
慶喜が二条城から大阪城に移動するとき、インフルエンザに罹患。幕府の強硬派が慶喜に迫り、打倒薩長の軍を京都に送ることに。
鳥羽伏見の戦いで慶喜側が敗れた。
錦の御旗の効果は対慶喜だけではない
幕府側は大阪城での戦いに備えていた。
西郷隆盛はイギリス軍に大阪湾封鎖を依頼。慶喜は江戸に逃げる。
大名は天皇から与えられた官位を持つ。将軍の家来と同時に天皇の廷臣という意識が強くなっていた。
慶喜も諸大名も錦の御旗には逆らえない。朝敵リストに慶喜、老中板倉勝静、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬等、外様大名の幕府離れ。
徹底抗戦と恭順、それぞれの選択の理由
錦の御旗に恭順するモノだけではなかった。
大政奉還後の旧幕臣の態度の物差し3つ
・新政府に恭順するか、しないか
・門閥出身か、出世組か
・西洋知識があるか、ないか
慶喜は恭順
徹底抗戦する門閥派、2つのもってのほか
・将軍がいない世界
・薩長が朝廷を掌握して行う政治
慶喜が江戸に逃げた後も旧幕府軍には巨大な軍事力があった。薩長と衝突しても勝機はあるかも。
5000石から8000石の領地を持つ旗本は独立心が強い。幕府よりも家。恭順。
徹底抗戦派分類、これらの人たちが結合して新政府軍に対抗、戊辰戦争長期化。
・低い身分から幕府に登用され恩義を感じた人
・洋式軍隊の指揮に自信があった人
・新政府から恨みを買っていて処刑されそうな人
“慶喜が恭順で新政府を受け入れたことが幕末を象徴している。慶喜自身がいつまでも徳川家の世が続かないと感じていたように思う。本著の記述からは専制君主に読み取れない。学者や公家の認知モデルを持つように感じる。武闘派ではない。”
どこよりも人材豊富だった幕府
ペリー来航以降、幕府は近代化を進めていた。
オランダ語や英語の通訳の人財を抱えていた。
大名にも数藩通訳はいたが、歴史が浅かった。
幕府が先に近代化を進める状況に焦った薩摩藩、長州藩が幕府を転覆。
旧幕臣たちが「縁の下の力持ち」だった
薩長土因から薩長土肥へ
鳥取藩(因)から佐賀藩(肥)へ
佐賀藩は反射炉を持ち自転車、鉄橋、大砲を作っていた。
幕府軍の人財も登用:渋沢栄一(大隈重信を支援)、榎本武楊、大島圭介、渋沢喜作、今井信郎、福沢諭吉
家柄、身分ではなく、学問、才能で登用。
第四章 「神君の仕組み」を破壊した人々が創った近代日本とは
討幕における主演・助演・脇役
幕末に京都が政局:1863-1868
1867 王政復古のクーデター
1869 戊辰戦勝終結
1873 明治6年の政変 征韓論による明治政府の分裂
1877 西南戦争
1881 明治14年の政変 伊藤博文中心の薩長藩閥体制
討幕派の中心薩摩藩
1866 薩長同盟 岩倉具視(公家)の薩長龍虎論「薩長の二藩は龍虎の如し。風雲に合えば、どれほどの勢いが生じるかわからない」,土佐(坂本龍馬、中岡慎太郎)が助け、薩摩(西郷隆盛、大久保利通)がその話に乗る。
1867 王政復古のクーデター 岩倉具視の謹慎解除、朝敵長州藩の恩赦。
1868 鳥羽伏見の戦い 薩摩中心 京都駐在の土佐藩 板垣退助の独走討幕
新政府軍への参加
徳川家に近い藩主が新政府に反抗せず
彦根藩井伊家
大垣藩戸田家
尾張徳川家
紀州徳川家
徳川慶喜の恭順
勝海舟の徳川宗家解体
江戸無血開城(1868)後の内戦
新式銃を持つ会津藩 対 佐賀藩のアームストロング砲
踏襲された江戸時代の会議形式
1868 新政府樹立
1869 政府は大臣等の「参議」の二階建て。
会議は担当大臣が所轄の報告や意見を述べた最後に意思決定者が会議を取りまとめた。
明治天皇は普段の会議には参加しない。
薩長土肥中心の会議に不満も。
海軍(薩摩)、陸軍(長州、薩摩)、大蔵省(長州、佐賀)、司法省(佐賀)
リーダーが2年近く、国を空ける異常事態
西洋を手本にした近代国家を目指した新政府のリーダー。
その時、西洋の仕組みをよく知っていた人財を登用しなかった。
あくまでも自らが仕組みを作り実行することにこだわった。
1871-1873 岩倉使節団 伊藤博文の発案で岩倉全権大使のもと、副使大久保&木戸で西洋視察旅行。アメリカ、イギリス、フランス、ロシアを巡行。
岩倉使節団がいない間の約束破り改革
日本に残った参議
西郷隆盛 西洋よりも日本の方が精神性は高い。西洋の技術は枝葉。そこは使節団に任せる。
板垣退助
大隈重信 佐賀藩主鍋島直正「世界を支配しているのはイギリス」フルベッキを招き長崎で学校。その担当者の一人だった。
約束「廃藩置県の事後処置はやっても、新規の改革は行わない」
ところが、大隈は様々な改革を実行した。
近代化の「基点」となった地租改正
1872 学制改革 全国に学区制、教員配置。庶民の学校。幕府は武士の学校だけ。
1873 地租改正 自作農に排他的土地所有権を認めて税を徴収。「武士の特権=領主権」の喪失。武士の反発。
経済的に苦しくなった武士の家。優秀なヒトは陸海軍の学校へ。
江戸時代の武士の人件費を殖産興業の費用へ。
帰国した使節団、そして西南戦争へ
1873 岩倉視察団帰国
同年 明治6年の変 征韓論の対立で西郷、板垣が下野。
1874 台湾出兵企図 清国の賠償金により一件落着 征韓論に反対し台湾出兵を企図したことで木戸が下野。
1877 西南戦争 新政府は九州の士族にあらかじめ根回しをしておき西南戦争はすぐに鎮圧。
新政府は木戸の主張「議会政治を制度化し、法律に基づく体制」を約束して木戸が復帰。
伊藤博文が方向転換した裏事情
1873 内務省 西南戦争の勝利により大久保利通の力が極めて強くなる
1877 木戸孝允病死
1878 大久保暗殺
次の時代のリーダー:軍閥 黒田清隆、財政 松方正義、長州 伊藤博文、井上馨、佐賀 大隈重信が主導権争い
イギリス流議院内閣制からドイツ式の君主大権制へ新政府の議論を伊藤が誘導。
1881 明治14年の政変 大隈を新政府から追放 伊藤は1年間留学
1885 薩長土肥の藩閥が「天皇の任命」の形をとって首相の座を回す
大日本帝国憲法では「天皇の軍隊」軍が直接天皇に諮り軍事を決定。内閣が口を挟む余地なし。
1941 日米開戦
1945 終戦
第五章 家康から考える「日本人というもの」
「物くさ太郎」と下剋上、そして「家意識」
徳川家康が作った「仕組み」は日本の庶民の心のうちにまで影響している。
人間の歴史は脳内にある、「信じ込んでいるもの」「信じ込まされているもの」で動いていく。
法律や制度・契約も人間の「造り事」「約束事」ですから、思想や宗教倫理に近い。
“ここで著者が主張しているのは、理論量子認知科学における「認知モデル」素示している。身体には(個物身体)と(共同体身体)があり、家康が(個物身体)を使って(共同体身体)に実装した「約束事」が現代にまで影響を及ぼしている。”
鎌倉時代には法曹が機能していた。しかし、鎌倉幕府が滅亡してから朝廷と幕府、両方の法曹が上手く機能しなくなった。
暴力が支配する社会。それぞれの地域を取りまとめる豪族の出現。庶民は自身の氏素性を頼りにするようになった。つまり、天皇との繋がりで支配の正当性を主張する状況が中世にできた。庶民までも朝廷官職名を勝手に名乗るように。例えば、宮本武蔵。武蔵守は北条泰時、足利尊氏が朝廷からもらった官職。
「百姓は王孫(王の子孫)だから、天皇の賞有する王土を利用し高い地位を得る権利を持つ」(王孫思想)が、室町時代に強くなった。このより高いステータスを欲する姿勢が下剋上を支えた。例えば、一寸法師、例えば、豊臣秀吉。
この時代から自分の家系が豊かに続いて欲しいと願う人が増えてきた。これが先祖を祭祀する仏教の普及に繋がる。
民の意識を「下剋上」から「安定」志向へ
家康は自らを神格化して政権の安定を企図した。
これは、室町時代から続く庶民の家を大切にして長い繁栄の希求と合致していた。
実は信長も秀吉も自己を神格化しようとしていた。
徳川家が永遠に繁栄するには下剋上は好ましくない。
家の身分を守る社会へと変貌していった。
将軍を天皇よりもすごい存在にするために
家康は死後久能山に葬られ日光東照宮に改葬された。
久能山と日光東照宮を結んだ先に富士山がある。
聖徳太子と自らをダブらせている。
もう一つ、太陽神のイメージを持たせることで天道を照らす存在を演出
天皇家は直系以外の男子は仏門に入り子孫を残さないように。徳川家以外に皇族と関わりのある大名を増やさないため。
天皇や将軍が死亡した時、鳴物停止令が発出される。天皇よりも将軍の方をなり物停止期間を長くした。
天皇の戒名は「院」で終わる。家康は「神君」
東照宮礼を造営した東照宮、計500社、で実行して家康を神格化した。
忠義と親孝行、正露と慈悲
徳川政権は下剋上を止めた。
朱子学の登用。分をわきまえる。
家を絶やさぬよう、名誉を受けるよう、家を起こすよう。
養子が男系女系問わずたくさん縁組された。
変わらないことが安心な文化を広めた。
幕府が民に信じて欲しくない思想
朱子学は信じて欲しいが、豊国大明神、キリスト教は信じてほしくなかった。
陽明学は自分の考えた世界観で世の中を主体的に変えていくこと、革命思想につながるので徳川幕府は禁止。
江戸時代前半は徳川体制がしっかりしていれば朱子学の「権力のおかげで平和が維持され、生産・経済活動がなされる。」のでありがたいという考えが民衆に浸透。飢饉が続き、百姓一揆がしばしば起きた後半は変化してきた。家康を超える存在に救いを求め始めた。
「世直し」一揆と伊勢神宮の「おかげ」
民衆は食べ物の価格が上がると政権を脅かす。幕末にかけて世直しが。「打ち壊し」幕末の内憂外患が進むと加速。冷害による飢饉とロシア、イギリス、アメリカの開国要求。その対象は豪商や豪農だった。
1837 大塩平八郎の乱で幕府や藩の出張所が標的に。武士階層から武士政権を糾弾する動き。
徳川政権にトドメを刺したのは天皇の御旗。
「天照大神と伊勢神宮」 伊勢神宮は反徳川。徳川体制が弱ったらええじゃないか踊りが始まり天から伊勢神宮のお札が降ってきた。
伊勢信仰を弾圧する動きが徳川幕府にあったが、結局、それは実行されなかった。
伊勢信仰は天下泰平が幕府のお陰から、天皇のお陰に変わる文化が底流にある。
文人たちのサロンが突き崩して行った
江戸中期以降、身分に縛り付ける徳川幕府のからくりに気付き、好きに生きる人、脱走インテリたちが現れ始めた。脱藩、流浪の旅でからくりに気づいた人たちのネットワークができてきた。
寛政の三奇人:蒲生君平(天皇陵調査「山稜志」)、高山彦九郎(「草莽」思想)、林子平(仙台藩、長崎遊学、流浪なし)
妥当徳川の精神的支柱:草莽、国学
読書会、書画会、物産絵が人々の自由な横の繋がりの場に。主従関係の縦型社会を創ってきた徳川にとって困ったことに。
身分固定の家制度では体制が立ち行かなくなり、各藩が藩校を設立して運営をするように。これが学校官僚制に。厳しい受験戦争に勝ったら身分家柄を超えて出世できる仕組み。
明治時代には学校エリートを陸軍、海軍、大蔵省、内務省へ。出世のための勉強。
1881、1882 天皇をトップにする体制へ。
徳川の世と女性・子供の幸せ
綱吉政権は生命を大切にする法律を施行したが、人間の子供の「捨て子禁止」も政策にした。
主従制下の官僚制:身分固定の体制で殿への忠義、親への孝行が求められた。これが殿への忖度に。この忖度文化は戦時中、小学生に戦地へ行って戦死することを説く校長を出現させた。
官僚で出世したヒトは戦中戦後で発言が180度変わる。評価を前提に行動する。鬼畜米英から拝米主義へ。
“間違った評価基準で行動する組織は間違った結果を出す。国民を豊かにする財政政策を立案し実行するのが財務省の役割。国民を貧乏にして経済苦でお亡くなりになる国民、バブル期には不要だった子ども食堂が乱立するするまでデフレ期に緊縮財政を続け自らの利権を確保している財務省の人事評価権者は国家反逆罪ではないか。”
大事とする自己哲学の軸を持つ
自分が大事とする考えの軸を持つ。
「未来の子どもの幸せ」に価値を置く観点が大事。
戦中、児童に「死ね」と言った校長は京都府校長会長に出世していても偉い人ではなく、自分のない恥ずかしい人。
#アルベルトアインシュタイン 「人の価値とは、その人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる」
正直は美徳は徳川幕府の政策によって定着した。
*ここに示されている内容は事実と解釈が入り混じっている。事実は人類史の一部であり、解釈は著者の認知モデルから導き出されている。同じ事実を集めても著者が異なれば解釈は異なる。それは、認知モデルが一人一人異なるからである。
終わりに=Outcome
江戸時代の終焉と、令和の今を結びつける。
どんなに上手く創られている制度でも、時代が移りゆけば変更が必要となる。
江戸時代は身分固定の「生まれた家差別」の制度が運用された。その結果、飢饉が起こると農民の不満を鎮められない事件を繰り返すようになった。身分の固定から知識を持ち知識を活用する能力によって役割が変わる体制に移行した。
令和の今は、江戸時代以降、日本が飲み込まれてきた欧米発の全体主義の枠組み、手段としての企業社会主義が、制度疲労を起こしている。人類史と世界の仕組みを知るヒトが増えてきた。#ドナルドトランプ さんが米国大統領になったこと、#ウラジミールプーチン さんがBRICSの一員として発言を続けることで、人類史と世界の仕組みを知るヒトがますます増えてくるだろう。
日米関係を変えて世界を変える。
G7諸国の脱走エリートの連携が効果的。
この間(江戸時代の終焉から令和の今)に起きた大東亜戦争への(徳川時代265年の)影響を考察する。
国民のための学校を設立した時期と、元武士の家系が経済的に困窮した時期が重なった。
武家の子は学費のいらない陸軍、海軍の士官学校で学んだ。
殖産興業で欧米に追いつけ追い越せの時代が大東亜戦争に繋がった。
全体主義を世界中に広めるグローバリストを実行部隊だとすると、その向こうに世界に稀有なお金持ちの家系がいる。
日本人の中にも国民を支配する志向の強いヒト、家系はあるでしょう。
最終的には(搾取, 支配)のない社会に向かう途中の出来事として考察する。
織田信長から始まった天下布武の流れは、豊臣秀吉を経て徳川家康により完結した。
徳川家康は天下泰平の手段として下剋上を無くす、そのために家に連動した身分制度を導入、それを安定稼働させるために先祖供養の仏教制度を広めた。家康は敵に対しても反抗の意図がなくなれば体制の中に組み入れた。だが、反抗勢力として歯向かう可能性は常にあるため、監視を続け、軍事行動に出られないように経済を抑制する政策をとった。
この政策を転換するきっかけが黒船。英国系国際金融資本家ロスチャイルド家の縁者ペリーがやってきた。
外国勢力を跳ね返すために各藩の軍備増強を許可。鎖国も緩くなり、各藩が外国と交易をするように。佐賀藩は反射炉を購入。アームストロング砲、自転車、鉄橋を作れるようになった。
欧米のグローバリストの目的は日本の財産を搾取すること。徳川幕府1強の時代から薩長土肥の4強の時代へ。その後も日本人の権力争いを近くで監視しながらグローバリストの目的を達成する工作を続けている。
大東亜戦争は秋丸機関による調査結果から、対米開戦を避けてインド洋封鎖。すでに対ドイツ戦を戦っていたイギリスが経済的に戦争を継続できない状況に追い込み、米国不参戦のまま英国敗戦で欧米のブロック経済から脱出する予定だった。
天皇が真珠湾攻撃を認めた経過を私は知らない。
明治天皇が暗殺されすり替えられたとの情報がある。すり替えた勢力は天皇を監視する。これが大東亜戦争時にも続いていたと推論している。
海軍の永野修身ー山本五十六で真珠湾攻撃を計画実行。永野修身と天皇を監視していた勢力が実質的に真珠湾攻撃を企図し実行したと推論している。天皇を入れ替えた勢力の中心はロスチャイルド家なのかも。
徳川265年の影響は、下剋上による天下布武から天下泰平の世を作り身分固定制度の限界を克服できず時代を終えた一連の体験にある。
グローバリズムに抵抗しきれず、グローバリズムに飲み込まれ、人種差別撤廃、自主独立のために大東亜戦争を始めた。
欧米の支配者の認知モデル、その支配者が作ったシステム、実際の運用を知る国民がいたことは明治政府が国民学校を設立したから。
支配を目的とした行動がある限り、必ず反体制は生まれてしまう。
1868年に明治新政府を樹立してから69年後から77年後まで、1937年支那事変から始まった大東亜戦争、1941年真珠湾攻撃があり1945年終戦。人類は天下泰平を体験していない。大東亜戦争は天下泰平を記憶した日本人が人種差別主義者のグローバリストと闘った記憶。
どこの国の国民も戦争を望んでいないにも関わらず戦争が起きるのは米国の軍産複合体を中心とした #戦争ビジネス があるから。
縄文時代と大東亜戦争の間に徳川265年の天下泰平の世があったとする人類史は下剋上盛んな天下を泰平にしたモデルとして活用可能。
これが徳川265年の役割。
新たに得た知識を人類から人種差別を撤廃する活動計画に組み込む。
固定された(支配, 被支配者)の関係は長続きしない。目先の制度を変え、大衆が認知している支配者が変わってきたから欧米のグローバリストの企みがここまで続いてきた。(通貨発行権, 株式制度)を手段としたお金の力による支配体制が既に明らかとなっている。
各国の国民が連帯する。横の繋がり。支配体制である縦型社会を破壊する。すべてのヒトが地域の生産者となる。
人種差別撤廃は人類の共同体社会への回帰。世界中の民がすべての地域における(嘘, 独り占め)を監視し、(搾取. 支配)への流れを止める。脱エリートの勧めと脱エリートの連帯。
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